Amazon Primeで、ジョン・タートルトーブ「MEG ザ・モンスター」(2018年)を観る。…そうか、この人がジェイソン・ステイサムなのか…と思った。
巨大サメが出てくるのだが、サメのサイズ感がよくわからないというか、超巨大だったり、そうでもなかったりする。サメが出てくる複数の場面において、その時々に応じて、撮りたい画の都合に応じて、サメのサイズが変わっているような印象を受ける。
サメが襲ってくる恐怖や不安、サメを一騎打ちになるスリルを楽しむとして、まずは恐怖の対象の大きさを、できるだけ正確に捉えたいと、観る者はどこかで感じる。それによって「敵」と自分との距離感、海の広がり、船の大きさ、高低差、それらを成す空間全体のスケール感、いわば映画がこちらに強いてくる限定性とか可能性といった諸条件を、できるだけ早めに察知して、これから我が身に降りかかるだろう危機に備えたいのだ。
しかし本作は、サメに襲われるいくつかの場面が、我が身を守るために必要な情報をきちんと提供してくれない感じなのだ。もちろん前半の「仕掛け」として、奮闘ののちようやく仕留めたサメがじつはラスボスではなくて、その後あらわれる個体が「真のモンスター」だったりするので、その「サイズ」を、登場人物たちが見誤るのは物語の都合上仕方がないのかもしれないが、だとしても後半からクライマックスにかけて大暴れする真のモンスターでさえ、こいつが真打ちでいいのかはっきりしない。間違いないと思える根拠は、すでに物語の後半からクライマックスに差し掛かる段階で、そいつが大暴れしてるからということにしかない。だから私の感覚は、いつまで経ってもサメに襲われることの不安や恐怖に対する準備をしようとしない。自分に与えられているはずの条件や制限について、私自身の危険を脅威として感じ取ることができないまま、自分がどこにいるのかよくわからないまま、背景から切り離されたフリーサイズのサメが暴れる画をただ見ているだけになる。