Amazon Primeでベルナルド・ベルトルッチ「暗殺の森」(1970年)を観る。
ひとくちに秘密警察とかファシストと言っても色々いるのだろう。口だけのやつもいれば、政治策略だけのやつもいれば、行為だけのやつもいる。
行為に及んでしまう、それにどっぷりの連中は、ある意味で、それなりに清々しいのだ。じっさいの手触りを知っており、経験を重ねた者はそれが殺人であっても、結果を組織内に技術を伝達し、育み、次第に成長するのだ。だから場数を経た計画や手順には、いつしか洗練が感じられるようになり、ときには職業倫理さえ芽ばえるだろう。彼らはプロとして仕事をし、相手を始末する。そこに逡巡はなく、だから彼らも、いずれ時が来れば、まるで物理法則のようにあっけなく殺されるのかもしれない。そのことへの不安や恐怖さえ制御できてしまえるのが、技術と経験なのだ。そのような存在としての自身に迷いはなく、苦悩もない。仕事があるだけだ。
しかし主人公の男は、けっしてじっさいの行為に及ばない。せっかくだから、自分自身でドミニク・サンダを殺せばいいのに、それをしない。だから付き人の殺し屋にも軽蔑されるのだ。
彼はいつまでたっても彼のままだ。なぜか。彼がいつまでたっても、同じような顔をしてるからだ。この人物(ジャン=ルイ・トランティニャン)、この男性の顔、かすかに不安をたたえた、完全な受動的存在。こういう目つきの人いるよな…と思うし、いないとも思う。誰もがこういう顔だとも思うし、こんな顔は見たことないとも思う。
ただ黙って、様子を伺ってるだけみたいな顔。わりかし動き回るのに、そんな感じがしない。じっと前を向いている。じっと座っている。どこを見てるのかよくわからない視線を固定したままでいる。自分には、弱みがある。黒歴史がある。突かれると辛い箇所がある。思い出したくない、叩けば埃の出る過去がある。
自分が自身の記憶と上手く付き合っていくために、その都度、最善と思われる選択を採る。その成果を消毒薬のように、過去の傷にふりかける。それだけで過去の傷は癒えないけど、悪化を食い止めることはできる。だからずっと死ぬまでそれを止めないことだ。もしかすると、いつか傷は癒えるかもしれない、根拠もなくそれを想像し、期待しながら、ひたすら同じことをくりかえす。
群衆の出てくる場面が二か所ある。ひとつは居酒屋でのダンス場面。客全員が熱狂的に踊り、手をつないで乱舞し、輪になって店内外を行き来し、最後は彼を取り囲むように輪を重ねる。もうひとつは最後の場面。もはやファシスト政権の息も絶え絶えな時節において、あらたな思想主張を掲げているのだろう集団が行進してくる。彼はひとり、その行進が通り過ぎるのを見やる。
「ブレードランナー2049」を思い出させるくらいに、だだっ広くて何もない組織拠点の受付フロアとか、精神病院の景色とか、電車内の窓外の景色やら、雪降る森の中やら、うっとりさせられる場面が次から次へと出てくる。この気持ちよさは、どこかに少なからず何か生暖かいものに包まれていることの快適さを含むのかもしれないと思う。それこそが自らを組織化、組織下に入ることの代償として得られる快適さではないかとも思う。トランティニャンの表情にどこかイラつかされる理由は、それじゃないかと思う。
ファシズムがどうのこうのではないのだ。人が生きるためにその都度「最善と思われる選択を採ること」自体を糾弾されているのだ。だから、自分も身に覚えがあると思うのかもしれないし、いや僕のどこがだ、そのへんの吝嗇な連中のほうがよほど上手くやってるぞ、自分なんか全然だぞ、と言いたくもある。とはいえ何かはむさぼった、そのうしろめたさと不安はあるのかもしれない。なにしろ、どこかに屈服することで得ることのできる快適さ、安楽さというものがあって、それを知ってる気がするなら、それが証拠ではないか。
「蜘蛛の瞳」が引用していた、かの有名な森の中の暗殺場面は、何度見ても恐ろしく、誰もあのようには死にたくなく、かつ観る者をまったく言葉のない虚無的空間へ突き放すような力をもったシーンだと思う。