DVDでビクトル・エリセ「エル・スール」(1983年)を観る。映画はその語り口のようなものが、観る者を安心させ甘えさせて、おおむね同じ方向へ誘導させようとすることもあれば、そのような態度を厳しく自重し、容易に観る者を寄せ付けず、安易に安心させず、したがって観る者の自力を信頼して、語る先へ進もうとすることもある。本作から感じさせる毅然とした感触はまさに後者のものだ。

なぜそのようであるのかと言えば、そのような態度からしか語ることのできない事柄を取り扱っているからだ。そう簡単に、何かをわかった気にはなれない、そう簡単にわかるものではない、という抑制と緊張がここにはある。

それは歴史的重大事だとか、人々の生々しい記憶に結び付いてるとか、そういうことだからではない。些細で取るに足りない出来事だろうが、そうでなかろうが、語る方法でそれらは如何様にもなる。すべての事柄はそうであり、そうでないなら何であれ、あらかじめわかっているようにしかわからない。

ただ、こんな言い方は厳めしすぎる。この映画の静かで柔らかな光と音に似合わな過ぎるだろう。

人物がいる。たとえば父親がいる。父親の優しげな、あるいは気難し気な、取り付く島のない、何を考えているのかわからない、おそらくその背後に見えないものがある。

父アグスティンは、所詮ただのダメ親父に過ぎないではないかと、言おうとすれば余裕で言える。しかしそれはこの映画から身を引きはがしてはじめて言えることだ。アグスティンという登場人物を、そもそも映画は、彼自身を、そんな風に簡単に我々の前に晒していない。故郷との確執や、旧来のしきたり、おそらくは政治思想も含めて、彼のなかにある屈託と葛藤はもっと深刻なのだとか何とか、そのような背景を想像すべきだという話でもない。ただひたすらわからない、誰かが、なぜそうであるのかは、けっしてわからないのだ。人とは、ことに身内とは、そういうものだとも思う。ただアグスティンと呼ばれる人物の表情を、映画があらわすがままに、じっと見るよりほかないのだ。

そしてそれは、娘エストレーリャが感じている父親の見えなさ、捉えられなさにも重なるだろう。でも、くりかえしになるけど、娘から見た父アグスティンのわかりがたさが、ここに現わされているわけではない。エストレーリャはあくまでも彼女として、父親をわからない。だから我々(の視線)は、けっしてエストレーリャと同じではない。もちろんアグスティンでもない。あの二人は、我々を共感に誘うことがない。映画が彼らに、そのようなふるまいを一切させない。その一貫した姿勢が素晴らしいのだ。

もちろんエストレーリャの少女時代の、父親に対する子供らしい振る舞いに心打たれ、たまらない思いを噛みしめ、それが思春期への変容とともに、歯に衣着せぬ率直さの、その爽快なほどの残酷さに驚き、慄き、たまらず苦笑させられ、それを終映後に同席者と感想を言い合うこともできるだろうけど、映画のなかではそうじゃない。もちろんレストランで父親と向き合って、惜しみなくいくつかの言葉を紡ぐ彼女に、父親同様自分らも、したたかにショックは受けるのだが、それは何というか、少なくとも他人事ではなく自分自身にふりかかった事件であり、あとで何かの感想を言えるようなことでもないのだ。

父親とは…とか、娘って…とか、そういうことでもあるのだけど、その話だけではどうしようもない、悲劇でもなく、成長劇でもなく、父娘問題でもなく、これはなんでもない。そのどれでもあるのだけど、そういう言い方をしたら、この映画とは別の話になる。

このどうしようもなさ、手の届かなさ、誰もが特権的ではなくて、それは映画の作り手さえもそうで、だからここで語られている事柄は、それ以外ではけっしてなくて、それゆえあらゆる解釈も意味も受け入れず、このようなものとしてだけある。これはその、名指しようのない何かの強さであって、それを感じ取ったという自分にとどまるべきにも思え、それ以上の話が、すべてこの映画の外側の話に過ぎないことを認めるしかなくもある。

この映画に「南」は、絵葉書やイラストみたいなイメージでしか出てこない。この世界の、登場人物たちを包み込んでいるだろう寒さは、透明感のある光と深く濃い影とのコントラストによってあらわされる。それは窓枠を通して、横から事物を照らし出す。それは寒さではあるだろうけど、決して冬の厳しさではない。あるいはそれがまた別の場所から思い出される過去と化したときに、はじめてこのような色合いに変貌するのかもしれないと思うような、冬の厳しさなのかもしれない。