U-NEXTでジョン・カサヴェテス「こわれゆく女」(1974年)を観る。この映画を観ると、ジーナ・ローランスという人物にもきっと「素の状態」がある、つまり演技していない状態がありうるということを、理屈ではわかっていても、きちんと腑に落とせなくなる。

というか、何しろ自分はジーナ・ローランスをいくつかの映画作品でしか見たことがないから、誰しも同様この人も、映画の登場人物でない時間を過ごすこともあるというのが、何とも不思議な現実に思えるところがある。

たとえば「こわれゆく女」こそジーナ・ローランスで、ジーナ・ローランスがこの人物以外であるなら、それはそっちが演技なのではと言いたくなるほどだが、ただし厳密に言えば、現実だろうが映画であろうが、人間は生きているなら、終始演技的に振る舞うしかないのだとも言える。

しかしピーター・フォークの調子づいた感じやイライラした感じ、カッとなって見境い無くなるのと、ジーナ・ローランスとはやはり違う。役割がちがうというのか、漫才のボケとツッコミの違いとも言えるのか、登場人物(夫婦)の関係としても、演技者の関係としても、少なくとも、発する側と受ける側がある。受ける側は、少なくとも何らかの先行イメージに基づいて受けることができる。

ジーナ・ローランスは「妻」とか「母親」とか「家庭」とか、「夫とその仕事仲間」とか、自分が担いケアすべきいくつもの要素に対して、ことごとく「上手くいかない」が、彼女自身が「上手くいかない」という自覚はない。自分の信じる「正常」を彼女は演じる、それを「上手くいかない」ことにするのは、周囲の登場人物たちだ。ピーター・フォークはイラついて怒声を発して彼女を殴って優しく抱きしめて、そうやって彼は彼なりの理想や想定と現実との食い違いに悩み苦しむ、そのことを表現している。それは彼の仕事仲間や、親戚一同でさえそうだ。いずれにせよそれは、映画として演技しているのだが、おそらく映画でない現実の我々と、やっていることは変わらない。おそらくここでは、ジーナ・ローランスだけが、何も表現していない。

(ジーナ・ローランスの表情の変化を見つめていると、なぜか「Mr.ビーン」のローワン・アトキンソンを思い起こしてしまう…。)