U-NEXTで、リンゼイ・アンダーソン「八月の鯨」(1987年)を観る。僕自身は、リリアン・ギッシュにもベティ・デイヴィスにも思い入れはないどころか、ほとんど無知に近いのだが、それでも画面に二人の高齢女性がまともに大写しになると、なぜか得体のしれぬ感慨をこころに催さずにはいられない、少なくともそんな気持ちにはなる。
この年齢で、こんなお芝居して、すごいですねとか、そういう話では全くなくて、たしかにカメラは、被写体をあるがままに映し出すのだが、しかし役者というのは、すごいものだなあ…年齢とかそういうこと、いっさい関係ないなあ…と思う。
映画における俳優って、たとえば「能」のような形式とは、まるで違うものだと思う。老齢の表現として、老人が演じたとしても、まったく異なるアプローチを取るのだなと。
話としては、他愛もないというか、まことにわかりやすくオーソドックスで、しかしだからこそというのか、リリアン・ギッシュもベティ・デイヴィスも、正々堂々とクローズアップに立ち向かうというか、まともにその顔面を観る者に晒している。カメラはそれをなんとも生真面目に、二人の老婆を丁寧に扱いつつ、期待にきちんと応える。それだけといえばそれだけなのだが、それ以上でなくてもべつにかまわないとも言える。
(たとえば蓮實重彦がこの映画を見て怒るというのは、蓮實重彦の映画に関する著作を読んでいるなら、それはそれでよくわかる。こんな中途半端な腹の括り方で、この二人を召喚してんじゃねーよと。でもそれはそれで、あれからすでにもう、何十年も経ってしまった現時点からであれば、もはやそういう枠組みとは違うものとしてしか観られない。)
それこそ、今こんな風に老後の余生を過ごすこと自体が、ありえないほど恵まれた、もはや決して叶わない夢のようなものでもある。老境の域に入った今を、幼少の記憶と同じ住処で、同じように過ごすことが、もはや現実ではなく、夢のようにさえ感じられる。
リリアン・ギッシュと、ベティ・デイヴィスは姉妹で、ベティ・デイヴィスはすでに失明しているので、リリアン・ギッシュが適宜彼女を支え、共に生活している。近所に住む知り合いが、時折訪ねてくるし、日々の暮らしは整然としていて、身だしなみもきちんとしていて、時間の流れかたは穏やかで、静謐でもあり、活気もあり、おおむね好ましいものだ。
終始いじわるばあさんみたいなベティ・デイヴィスだが、ひとり部屋で、真っ白な長い髪を背中までさらーっと垂らして、自らの頬に鳥の産毛を這わせながら、もう見えない目をそのときだけ見開いていたとき、かつての「ベティ・デイヴィス」の顔がいきなり蘇ったかのようだった。息をひそめたような気持ちで、黙って見入るよりほかなかった。
リリアン・ギッシュが、髪を解かして、ドレスに着替えて、亡き夫の遺影と晩餐の準備をするところも、なんというか、ああ、リリアン・ギッシュなのだなあ…と。言葉が出てこないけど、とにかく立派だなあと。
最後は二人、手をぎゅっと握りしめ合って立ち上がる、二人並んで、海を見守る。それだけのことだったが、とても立派だ。