TOHOシネマズ錦糸町でアレックス・ガーランド「シビル・ウォー アメリカ最後の日」(2024年)を観る。
西部勢力と呼ばれるいくかの州をたばねた武装組織が、アメリカ正規軍を相手に戦争している。国家統制下のマスコミ報道は嘘ばかりで、どうやらアメリカ現政府はもはや虫の息で、このまま行くと正規軍は明日にでも降伏しかねず、すでに西部勢力の勝利はほぼ確定的な戦況らしい。
政府統制下を離れて、実態を正しく伝えようと野良で頑張るジャーナリストもアメリカ内外に多数いて(そんな彼らは敵勢協力者として捕まれば処刑される可能性も高い)、著名なベテラン戦場報道カメラマンの女性(キルスティン・ダンスト)と、その盟友的なジャーナリスト男性(ヴァグネル・モウラ)と、まるで長老的なジャーナリズム精神の支柱的存在でもあるような新聞記者の老人(スティーヴン・ヘンダーソン)と、つい最近この業界に参入したばかりみたいな新入りのカメラマン女性(ケイリー・スピーニー)。4人が大きくPRESSと書かれたワゴン車に乗って、まもなく窮地に追い込まれるだろう大統領のスクープを狙うべく、N.Yから2000km先のワシントンD.C.を目指すという話。
まず主要登場人物にやや鼻白むところはある。こんなわかりやすい四人組って、なんかダサくないかと感じてしまう。志高きジャーナリストたちが、戦時下アメリカを描いた映画のツアー案内人を担ってくれてるのだとは理解できるのだが、役割分担が幼稚に感じられて、誰もが物語に都合の良い「透明な人」が過ぎるかな…と。ベテランと若者の新旧交代と成長物語が物語の主軸にあるのが、また微妙な気持ちにさせる。
アメリカは国土が広いので、戦争状態を描くとなればああいう感じになるのは、なんとなく理解できる。ふつうに道を走っているなら、日常はいつも通り。たまに人が射殺されて倒れてたり、黒煙がもうもうと上がってたり、自動車がひっくり返ってたり、銃撃音が夜通し聴こえてきたりするのが戦争状態であると言われれば、そうかもねと思う。頭のおかしいサイコ野郎が出てくるのもわかる。その一方で、町ぐるみで戦争我関せずで(監視武装は行いつつも)いつもの日常をいつものように営む人々もいる。戦争関係ありません、私たちは私たちですな態度を取りつづける人々を、もっと掘り下げてくれないだろうか、とも思う。キルスティン・ダンストら一行は、そこでひととき「仮の日常」を味わってその町を去るのだが、君ら目線のそんな扱い方で、この町をさらっと通り過ぎるのは困るよと言いたくなる。
主要人物の四名を含むすべての戦争カメラマンやジャーナリストが、高潔な精神と強い意志で表象されるばかりではなくて、スクープ狙いの金や名誉が目当ての、あるいは人間の戦争状態そのものに魅了されている、血沸き肉躍る極限体験に淫してる、そういう種族かもしれぬといった視点は、この映画にないわけではないのだが、しかしやはり全編あまりにもキレイごとが過ぎて、少なくとも個人の心意気が元手の倫理でジャーナリズムは支えられていると信じるのが、これほど難しい時代にあってはなおさらで、戦争状態の只中で、報道だけは感情も私情も交えず客観的な記録に徹することで自己保全できるなんて、そんなはずがないのにそのことへの根本からの不安や慄きを感じさせない彼らの姿は、書き割りのように非現実的で、そのおかげで彼らは何があっても絶対に銃弾のあたらない、あるいは窮地を脱することが可能な特権的な立場にいて、それでも老記者やキルスティン・ダンストが死ぬのは、戦争のせいではなく映画の都合上である(アジア系ジャーナリストの二人はサイコ野郎から殺されるためにだけ登場するようなものだ、こういうあからさまなことをして平然としてるのが、この映画のすごいところ)。
ただ、ならばこの映画がぜんぜんダメなのかと問われたら、いや、わりに面白かったんですよね…と答えるしかない。クライマックスのワシントンD.C.侵攻~ホワイトハウス陥落まで、さすがにすごい。ヘリコプターやら戦車やら装甲車やらが目白押しで攻めてきて猛烈な市街戦が展開される。何台かの車両とともに黒塗りの大統領専用車が官邸から強行突破で脱出しようとして、銃撃でハチの巣にされるあたりからは、あまりのことに呆然として事態を見やるばかりだ。
百戦錬磨のベテランカメラマンのくせに、なぜか突然パニックで精神恐慌を起こしてるキルスティン・ダンストが、突如としていつもの冷静さを取り戻すあたり、おそらくあの車に大統領は乗ってないだろうとは、さすがに僕も予想したのだが、その後官邸へ武装部隊と彼らが押し入っていき、兵隊だろうが黒スーツだろうが見境なく殺しまくり、側近だか大統領補佐官だか決死で交渉を試みる女性とかもばんばん殺されて、最終的に床に仰向けにひっくり返った大統領を、皆で取り囲んで銃口を突きつけて、動物を仕留めるみたいにケリをつけるまで。大統領の亡骸を取り囲んで笑顔な彼らの姿が、途中銃弾に倒れたキルスティン・ダンストを踏み越えて、決定的な場所までやってきた若いカメラマンのニコンで撮られるまで。
こういうのが「歴史的瞬間」で、ジャーナリスト冥利ここに極まれりと言いたいのだろう。過去に現実のテレビで見た、いくつかの映像や写真が思い出されもするような。負けも嫌だけど、勝ち戦ってのも嫌だねえと。人の命がまさに紙切れ以下になって、世の中が変動するというのは、こうして人の個々の生が、まるで無価値になることで、でもそういうのを映画で観るときに、大音量で鳴り響く銃撃音を聴き続けているときに、生命が踏みにじられていくのを安全な場所から見下ろしているときに、なぜ不思議な爽快感というかある種の見晴らしの良さを感じるのだろうな。それをもたらすのは報道であり、決定的な瞬間として切り取られた一個のイメージだ。だからまあ、せいぜい映画やテレビで観ているのが関の山だな。いや、やっぱり深刻そうに眉間にしわ寄せてる連中より「それは私たちの人生と関係ないです」と言ってたショップ店員の娘が正しいな。
なお本作における音楽は、じつに素晴らしい。あえて50年代でも60年代でもない、きわめて微妙な線を狙いつつ、既成の音楽からチョイスされたのだと思うが、デ・ラ・ソウル以外の曲はわからなかったので後で調べたら、死ぬほど効果的に鳴り響いていたあの曲はスーサイドなのか。どの曲もまったくBGMではない。その場面を音楽的に説明したり補足しようとして鳴ってるわけではない。この映画においては、それらの楽曲がかつてのアメリカの文化であり、人々の生活であり、国家としてのまとまりであり、今はもう失われた祖国の遺産のすべて…といった風に、ほんとうにノスタルジックな「古き良き何か」のように聴こえてくる。僕にはそう思えてならなかった。まさかスーサイドがそんなふうに聴こえるなんて、悪い冗談のようだけど、これは本当にそうだった。