柏のキネマ旬報シアターで想田和弘「五香宮の猫」(2024年)を観る。舞台となる岡山県の牛窓町は、同監督2018年の作品「港町」と同じロケ地らしい。見てるだけで、湿った風と潮の香りが漂ってきそうな景色だ。
神社の敷地内に猫がたくさんいて、猫を目当てにその地を訪れる人がいて、猫の面倒をみる地元の人々がいて、猫の糞害その他に眉を顰める人々もいる。とくに神社の保全にかかわる人々にとって、猫問題は他人事ですまない。ただちに駆除は誰も望まないけど、野放図にしておくわけにもいかないから、今いる猫たちには片っ端から去勢手術をして、これ以上増えないように対策する。猫保護派の取り組みによって、ひとまず関係者の暫定合意を取り付けているかたちだ。
ただ、それは町内会の議事録的な説明に過ぎない。この映画がとらえているのはそういうことではなくて、カメラはあくまでも、町民ひとりひとりと、撮影者でもあり監督でもある想田和弘本人とのやり取り、そして猫の様子、すれ違う人々や景色、天候の変化、季節の移ろいなどを捉えているだけだ。想田和弘と妻の柏木規与子は、ロケ地である港町を住処として暮らしていて、とくに柏木は地域の猫保護対策に積極的に関与しているようだ。
この映画を撮影、編集、監督をした人の「人柄」が、作品に色濃く反映しているのだとも思う。想田は神社の草木を日々整備しに来る男性や、猫捕獲のケージを準備する人々、駐車場脇で毎日釣りに明け暮れる人々、猫をかわいがる人、さまざまな人に話しかける。カメラを向けられ、登場人物となった彼ら彼女らは、彼に対して心から気を許しているわけでもないが、部外者に対するよそよそしさを見せるわけでもない。猫が好きな人、そうでもない人、いろいろだが、ここの猫についてどう思いますか?といった質問に対して、誰もが誰もに気遣いをし、はっきりと強い言葉は使わないが、自分の考えは述べる。つつましくて上品で思慮深さをたたえた人々の姿がそれぞれ印象に残る。
登場するそのほとんどが老人である。地方の港町の住民が老人ばかりであるのは、それはそうなのだろうと思うが、ただ見ているうちに、どうも様子がおかしいなとも思う。老人ばかりではなく子供たちの姿も見られるのだ。先生に引率されて外を歩いている小学一年生の十人くらいの列。キャッチボールしたり学校の宿題で監督に職業質問しにくる子。お祭りの夜には子供同士で夜道を歩いているのを、まあいつの間にかこんなに大きくなって…とか、近所のおばさんが驚いてる。
けっして多くはないだろうが、子供たちがいる。この映画は、制作側の夫婦と、老人と子供と猫だけが住む町、そのような世界として描かれていて、若い人あるいは中年が、そこにはいないのだ。たしか会合に参加してた市議会議員、あと神社の宮司はわりと若かったけど、そのくらいだと思う。少なくとも子供たちの親とか保護者に該当しそうな人たちが、この映画ではいっさいカメラに映り込まない。もちろん神社の運営や保全にかかわり、町内会に出席するのが老人ばかりであるのはわかるのだが、それにしても不自然なほどいない。それはおそらく意図的なものではないかと感じた。(ちなみに、犬もいない。犬を散歩してる人もいない。)
当然ながら、町の人の誰もをカメラに捉えることはできず、風景のすべてもそうだ。逆にいえば、人も町も、映っている「これ」だけではない。それは当然のことだ。被写体を見守り、あるいは無力かもしれないけれども出来るだけその姿を、ありのままに伝えようとする意志がカメラ側の「人柄」だとするなら、作品を観てそのことをありがたく享受しながらも、カメラの届かない先には、複雑かつ意図のわかりにくい世界が、さらに広がっているのだとも思う。