銀座の観世能楽堂で第三十一回能尚会。番組は仕舞に続いて能「遊行柳」、狂言「萩大名」、仕舞に続いて能「船弁慶」。

能には、経験と修練を積み重ねた結果としての、きわめて高度な身体の制御がありながら「演技」はない。かつての出来事を再現させようという意識がない。神話や伝説の物語を語りながら、それをかつて一度だけ起きた過去という捉え方をせず、いくつもの似た出来事を複数束ねたような、いくつもの経験の記憶が流れのようになっているのを、そのまま大きく捉えようとしているように思われる。

なので能の登場人物から、来たる経験への直接的反応としての人格は削り取られていて、あくまでも記憶群の重ね合わさった結果としてそれが人の形をとったような存在にみえる。そのために、能に固有な、非常に堅牢な「型」の順守があるという感じがする。

ただしだからこそ、そこには演じる人物の身体性が、色濃くあらわれる。能では主役(シテ)の顔は面で隠れているので、表情による演技もなく、非常に抑制的な動きだけがあるので、そこにあらわれるのは演者の身体そのもので、目の前にある身体そのもの(姿勢とか、歩みとか、手の位置とか、そういうこと)だけを見る。

「遊行柳」のシテは老人であり、柳の精でもある。老体あるいは人間でない存在を、ある年齢を経た人物が演じるというとき、それが演じられているとは思わない。ただその姿を見ているのだ。シテはほぼ動かない。いや、動いている。移動している。そのこと自体が驚きだ。

たとえば「船弁慶」での、平知盛の幽霊の動きは躍動そのものであり、これも演者の身体なのだが、力、スピード、リズム、圧縮と拡散が目まぐるしく入れ替わり、より現代的な舞踏を見たときの印象に近い感じがある。ということはつまり、身体のもつポテンシャルを見ている。これは能でもあり同時に、演者の修練に努力を重ねた結果であり、その見事な成果の披露でもある。若い身体というだけで、その特権的な個体の生を示さざるを得ない。

「遊行柳」の柳の精には、それがない。もちろん高度に制御された身体はある。あるはずだと思うのだが、昨年の「鸚鵡小町」でも思ったが、動きを徹底的に排除したかのような、このような舞台で何を見れば良いのかということになり、戸惑い、退屈し、眠くもなる。ほとんど途方に暮れる。

ただ思うに、すなわち、これが老齢ということだろうと。過去無数に存在した幾人もの老人の束、老齢であることそのものを見ているのだろうと。そのとき何か、妙に納得しながら舞台を見ている自分もいる。ここに人物の凄さはない。というより、個体への注目や関心を誘う何かがない。個体への関心が中心となるとき、風景の一部として駅や町の雑踏を、行きかう人々とまるで異なるスピードで歩く老齢の人物、柳の精は公園の片隅で杖を片手にじっと立つ老人の同類であり、それは生きている場所や時間の違い、経験の記憶の違いである。それはある意味で、はっきりと目に認められた、まだ知らない自分をも含む存在感でもある。