U-NEXTで、ジャン・ルノワール「ピクニック」(1936年)を観る。パリで商売を営む家族、祖母、父、母、娘、そして若い男が馬車に乗って、ピクニックで川辺の田舎までやってくる。レストランを見かけて立ち寄り、川で釣りをしたいだの野外で昼食をとりたいだの色々注文する。都会のひとたちは草上の昼食が好きだねと半ばあきれつつ、店のおばさんは昼食の支度をする。
まんま印象派絵画のモチーフそのものといった感じの映画で、映画の作り手側に印象派の絵画のイメージが最初からあったということなのか、それともこうした田舎でのピクニックとか舟遊びというのが、当時のパリの人々にとって当たり前の行事で、当時の人々にとっては何の変哲もない日常が描かれているのか。パリの都会人が、草上の朝食好きというのは、つまりアウトドアで自然を楽しむ的な、そんな庶民的流行だったのだろうか。
都会人と田舎人の対比に見えて、現在に置き換えるならこれは都市生活者と観光地住民の関係である。地元の人々は観光客にやや辟易しながらも、商売だから客として相手をする。たぶんこの家族、商売は祖母の代からやっていて、父は娘婿で、娘もやがては後継者みたいな感じだろうか。
母や娘の着る衣装は、今ならフランス人でも「昔」に見えるのだろうが、1930年代ならどうなのか。つまりこの映画は当時の視点でなつかしい昔なのか現在なのか。母親は出会った若い男の上半身にぴったりなボーダーシャツ姿をみて、まるで裸みたいとつぶやく。舟遊びもさることながら、印象派絵画のイメージって、まさに女性の、この長く引き摺るような衣装の感じだよなと思う。
店のなかで若い男二人が食事をしている。テーブルを挟んで彼らが向かい合い、ふいに窓を開けると、溢れだすかのような勢いで明るい外の景色がひらき、母親と娘が並んでブランコしている様子が見える。ほとんど天国的というか痴呆的な表情でブランコを楽しむ娘。男二人はただ娘に見惚れる。この場面はいい。ワイン呑んでごはん食べながら美しいものを見ている男二人がひたすら羨ましい。
家族はサクランボの木の下で昼食後、男たちは酔っぱらって眠りこけ、やや退屈気味な母と娘は若い男二人と舟遊びの約束を取り付ける。二艘の船は、音もなくなめらかに岸辺をはなれて、すべるように川を進む。若い娘を乗せたボートの男は、娘にじっと視線を向けている。娘は彼を見ず、何事もないかのようにふるまい、流れる木々を見上げ、鳥の声を気にしている。
岸辺に上陸して、なおも鳥の声を追いかける娘だが、ゆっくりと身体を寄せてくる男。ひたすら無視しようとするが、やがて彼の抱擁に抗えなくなる。そのあいだも木漏れ日は明滅し、風が木々の葉をひっきりなしに揺らす。
やがて雨が川面をたたく。晴れ間が消え去り、木や草が風に揺れる。そして月日は流れる。もともと決まっていたことなのか、かつて同行していた男とその後結婚した娘が、ふたたびあの岸辺にやってきて、偶然に彼と再会する。娘は涙を流し、男は黙って彼女と夫の乗る船が岸辺を離れていくのを見送るだけだ。
じつに他愛もない話なのだが、だからこそまるで誰かの記憶か夢のように、底抜けに明るくも、泡のように儚い時間の流れだ。