「画家が人間を描かずして何を描くのか?」


戦後の日本の美術作品をに対して、ある傾向が色濃いと感じられる事がある。ストイックで明快で、暗く重い。そういう風にいきなり書いて、どのくらい共感を得られるのか?が判らないが、とりあえず皆がうんうんそうだねと言ってくれたと思うことにして、そういう嗜好が日本人固有の体質的なものなのか?はさておき、でも何を隠そう、この僕も、70年代から今日までこうして生きてきました中で、只、なんとなく、こうなってしまいまして、そういうものを自分にとって最大の「好み」というか「そういうもんでしょ」と思うようになってしまった部分があるのだという、かすかな自覚があり、そこが複雑な気分ではある。と続ける。


で、そんな僕を含む日本人が「師匠」と仰ぐ(ように少なくとも僕には感じられる)世界の巨匠を挙げるとすれば、次のようなものである。…たぶんすごいドイツ好きである。


ミケランジェロデューラールーベンス、グリューネバルト、…レンブラントドーミエゴヤドガロートレック、…クレー、ジャコメッティ、シーレ、ゴッホ、…ヤンセン、ヴンダーリッヒ、コルヴィッツ、ワイズバッシュ…日本だと須田国太郎とか林武とか横山操とか鴨居玲とか。


…彼らの作品は、たぶん強い「私」の類まれなる表現を完遂したマイスターたちとして召還されたのだと思う。で、こういうラインナップ、というかこういうラインナップから醸し出されるある種の感じを最初に「発明」したのは、85年に亡くなった美術評論家坂崎乙郎だと思う。彼の本には、カフカドストエフスキーを好み、たまにはスリラーや探偵小説を読み、そして厳しく人間存在とか素顔の「実存」を見つめる画家たちの絵を観るのだ。画家が人間を描かずして何を描くのか?…なんてことが書かれていて、それでこういうラインナップだったのである。いやそれは言い過ぎかもしれないが…。


(あと関係ないけど70年代後半以降の日本で、エイリアンのH.Rギーガーが受容されていったのと、ブレードランナー的世界が受容されていったのと、大友克洋的風景の密集世界が受容されていったのと、アニメで描かれる戦場と兵器が執拗にウェザリング(汚し)を施されはじめ、その後のコンピュータグラフィックスでも進化に合わせて劣化とか錆びとか綻びの表現に異様に執着していたように見えるのが、どうも上記の画家たちが醸し出してる何かと無関係でない気がしてるのだけれど、やっぱり気のせいでしょうか?)


で、やっぱありこれらのラインナップというのはもはや終わってしまったものなのだと思う。個々の画家がどうとかではなくて、これらのプレイリストがのはや有効じゃない!という話。(って、全然意味判らないこと言ってるのだろうか?これは僕が思ってるよりもものすごく僕固有の問題に過ぎないのだろうか??)僕なんかはこれらの画家を、今の時点で昔と変わらぬ思いで観ることは、結構難しい。いや画家たちが悪い訳ではなく、こういう画家を取り揃えて何らかの別の何かをあらわしていた、自分の中のしくみが破壊してしまったのが複雑なのだと思う。…というか、実はまだ全然破壊していないのかもしれないような予感もあって、なおさら怖い。だって、これらは今観ても、普通に良い絵だから。。少なくともそう感じる(一部を除いて)。でもそれを良いと感じている僕を疑うと云う事。そのような良さとは別の在り方で存在している絵が在るので…あるいは、それをいつしか良いと思わなくなった事について、なぜ良いと思えなくなったのかをちゃんと考える事。そんな風に今、僕がやらなきゃいけないことは、こういうの全体をすっかり忘れたような態度でやる事ではなく、ちゃんと周囲にも見えるように引きずりながら、そうではない絵も在ることを知っていて、それに引き裂かれてるような、矛盾してるような、詰問されても説明できずにしどろもどろにならざるを得ないような、そういう状態のままで、このまま歩くことだろうと思う。