「画家はデッサン力がすべてである」


…かつデッサン力だけが絵の価値を決めるのだ。とまで考えている人はさすがに少ないと思うが、それでもデッサン力が絵の魅力の決して少なくない一端を担う要素と捉える人は多いと思う。


…昔、僕が学生の頃、学校の課題授業で、アトリエで僕が制作中の絵をみて、ある人が激怒した事があった。「なんだこれ!なめんな!」的な。…予備校で苦労してきて、ようやく今、どこに出しても恥ずかしくない技術を携えて、やっと毅然としていられるというのに、こんな、これしか描けないような、これしきのヤツが同じ大学に平然としてるのかよ?・・・とでも思われたに違いない。そりゃ怒るわ。これじゃあな。。すいません…という感じだったのだが、デッサン力なんて、幾ら頑張ってもこんな悲しい思い出しか残してくれないものなのである。…でも、こういうのはいくらなんでも悲しいので、もっとそうではない何かを見出したいものだ。


ここで言うデッサン力とは、狭義のデッサン力であり、ものを現実の空間で見る感じそのままに平面上にもっともらしく描写できる技術。とでも言うべきものである。この意味でのデッサン力が便利なのは、同一線上に並べて相対評価を行うのに適した結果を得易いことだ。個人差+努力の結果を、トレーニングマシンの液晶表示のように一覧参照できる。この、デッサン力を高め、それをとりあえず作品の質を評価する材料とするシステムは、不特定多数の描き手を一括管理・評価するために編み出された、極めて効率的な仕組みといえる。デッサン力の向上は美術教育の基礎ともなり、受験産業を促進させ、お金を生み出しもするだろうし、渦中の人を翻弄しもするだろう。。まあ、こういうシンプルな「鍛錬」のような感じだけが醸し出す事の出来るある種のパワーもあるよなとは思うし、バットの素振りのような、無味乾燥な日々の反復にうちに、自分の無意識の嗜好が露になっていくような予感もあるので、こういうのは一元的に良いだの悪いだの言えない…ただまあ、あの巨大な「只なんとなくこうなった。」という感じが残るのは、はっきり悪いことなのかもしれないが…。


たとえば、ミケランジェロとかルーベンスの素描を、とてつもなく素晴らしいものだと思ったりする事があるが、これは彼らの素描が、すごいデッサン力があるから?というか、まあそういう事とも言えるが、更に突き詰めれば、ものを現実の空間で見る感じ、迫真性とかリアリティを感じさせるからか?といったら、そうでもないと思う。いや、、迫真性とかリアリティという言葉自体は、悪くない。…なんというか、たとえば今、ルーベンスの、男性の背中を描いた素描が、まともに現代の美術作品として現われたら、それはどうだろう?とか思う。それでもやはり、それは実は、意外に、ちゃんと感動的なのではないか?と思う。「今だと逆に新鮮だから」とかそういう意味ではない。普通に、ちゃんと素晴らしい作品として見えるのでは?と思う。というか、あれを観て「うわーすごい背中を描くのが上手い」と思う人は少ないだろう。なんというか、あの途方も無い量感が、あれしきの事だけで実現されてることの驚きというか…あの線が、線として与えられた筈の役割を越えてまったくあさっての力で躍動している感じの驚きというか…。まあ、まずとりあえず第一に背中を描いてる絵なのに、観る人が「背中」という言葉を忘れてしまうような出来事が画面上におこるのが、すごいのだと思う。


であるから、デッサン力というものは、それだけだと美術をつまらなく矮小化するものであるのは間違いないのだが、それを殊更、忌み嫌うほどでもない。というか、手を動かし、線を重ねる事でしか、何も見えぬ。それが結果的にどのような像のイメージに至るにせよ、それ以上何らかの制度にグルーピングされる訳でもないし、イメージは単にイメージであるはずだ。というか、それをそれだけのものとして屹立させるためには、ひたすら反復するしかないと思う。…そう思うんですけどねえ