DVDにて。1960年(昭和35年)公開の映画だ。主人公の川津祐介は1935年生まれで撮影当時25歳くらい、桑野みゆきは1942年生まれで当時18歳あたりだろう。父親役は劇中、影が薄いが、おそらく大正〜昭和初期生まれの設定であり太平洋戦争を生き延び経済復興の途上で新たに広まりつつある多様な価値観に揉まれ精神的にひどく弱体化し、もはや家長として存在できる確固たる理由を見失っているような感じだ。姉役の久我美子は一回り年上の1931年生まれで当時29歳あたり。その元恋人でしがない町医者役の渡辺文雄も共に昭和一桁後期〜団塊の手前の世代といったところか。
久我美子は姉という立場上、野放図に遊ぶ妹をたしなめ家に引き戻そうとしながらも、どこかで羨望と嫉妬を感じ、果たせなかった自分の思いを胸中に燻らせているのだが、ところで久我は「女の園」という映画に出演していた当時(1954)で23歳前後だろうが、あのときの久我は青臭い生硬な観念に取り付かれた左翼かぶれの女学生の役を演じていた。もちろん木下啓介の「女の園」と大島渚の本作とはまるで無関係だろうが、女優の実年齢と役柄という観点ではどうしても続いているかのように感じてしまう。
川津が妊娠した桑野を非合法で堕胎手術させるために金を払った相手が、久我の元恋人の渡辺であり、かつ川津と桑野が警察沙汰で取り調べられた際に芋づる式にしょっぴかれてしまい、久我・渡辺世代は完全に「敗北」する。胸中に燻っていた微かな思いも完全に消えた久我は「貴方たちにやれるというならやって御覧なさい」と川津に云う。私たちの挑戦が、図式的で観念的な理論を振りかざすだけで世界に対峙した結果の敗北であるのなら、むしろ貴方たちのように欲望を欲望のままに剥き身で晒して世界に対峙するのも悪くないのかもしれない。私たちの時代ではまだあらゆる壁が立ち塞がっており結局何も果たせなかったしおそらく私たちの青春というものをあなた達ほど奔放に輝かせる事も出来なかったのだけれど、あなた達の世代なら、もはや時代も変わり周囲からの縛りも緩み、あなた達自身の内面にも、もしかすると今までと違う、これからの社会を生き抜くにふさわしいような新たな何かがあるのかもしれない。もしあるなら見せて頂戴。という事だ。川津はひたすら林檎を食う。
しかし…政治活動にせよ恋愛の衝動を社会化させていくにせよ、そういうのはやはりある種の抽象作業なのだろうと思う。自分の欲動を定型化して承認させるための新しいコードの発見が目指されていて、それさえ何とかなれば「幸せ」になれるのかもしれない、という事なのだ。この映画ではそれを、あくまでも「全体的に」捉えようとしているのだと思う。とにかく全編、各登場人物の話す内容は異様にわかりやすい心理説明とかで溢れていてやや気恥ずかしい程なのだが、そういう不自然さもあえて図式的に無軌道な若者ふたりを含んだ「全体的」な状況として捉え続けるためだろう。
しかしこの映画ではそういう極めて観念的で図式的な言葉が錯乱すると同時にやけに熱く不定形な訳の分からない手触りの感覚も存在するのだ。ロケ撮影されている東京各所の町並みがものすごくリアルだという事もある。冒頭での江東区の貯木場の空気の感触はものすごいし、デモ行進がが映りこんでいる都心風景や夜の町並みや掘り返されて生々しい土の色が露出している工事現場など、言葉では説明できない映像の力が漲っている。そこで様々に展開される暴力とかセックスとかの描写には、ほとんど作り手の「気合」とかがなく、こんな感じでーという段取りだけあって、演技の質とかよりあくまでも「場」が(「全体的」な状況が)重要なのだ、という感じ。
まあ、しかしふたりが警察に捕まって中年男と社長のコレがこれだった為に示談にされて釈放されたりとか、結局は権力と金の援助の元でしかやれないよね、という在り来たりな結末が見えてくると、恐ろしくのっぺらぼうで何者かに立ち向かうロマンやヒロイズムなんかとも全く相容れないようなつまらない「現実」が見えてきて、とにかく「好きなように食って飲んで遊んでいたい、好きな人と一緒にいたい、幸せになりたい。」を実現するためには、何よりもまず金が要るのだという事だけ、恐ろしい程クリアにはっきりしてくる。この映画はその事を相当冷徹に教えてくれる映画である。やはり「自家用」に乗ってる「中年」に、丸腰のまま素手で勝つ事はあまりにも難しいのではないか?という苦い思いが冒頭から終始漂っている。そしてそれはおそらくその通りなのだ。
ラストでの二人のやり取りはすばらしい。「ねえ、これからどうしようか?」「これからどうする?」後が続かず、二人無言で雑踏を歩く。何しろ二人とも、それまで乗っていたタクシーに払う金(360円)さえもっていないのだ。「ねえ、またアレやろうか」と桑野が言う。アレとは美人局(つつもたせ)の事である。自分の体が部品やなにかみたいに細切れになっていく事に辛さを感じつつも、やはり生きるためにはそれしかないのだという諦念の境地に辿り着いたかのような言葉だ。色々考えててもどうしようもないから、とりあえずそれで凌ぐ、という事である。でも川津は気が進まない。ただ歩く。(で挙句、ああいうラストだ。確かに終わるためには死ぬしかない)
実際、本当に金がないと、ああいう風に歩くしかないのだ。それは肌身に沁みるほどわかる。僕よりお金持ちの人も僕より貧乏な人も、それぞれこの世にはたくさんいるだろうが、そういう事と無関係に、あの金もなくただ雑踏を歩くときの、目的を持つことすら禁じられたかのような手足を縛られているかのような感じというのは、僕には異様にリアルにわかる。