日本海に面し、三方を山に囲まれた小さな集落に通じる一本の“みち”
集落に豊かさをもたらし、暮らしを変えた“みち”は男たちが出ていく“みち”でもあった。昭和48年に放送された新日本紀行から34年。大地震による土砂崩れで“みち”は遮断された。集落を離れ仮設住宅で暮らす人々は故郷へと続く“みち”の復旧を待ち望んでいる。
かつて人々が出て行った“みち”は、故郷へ帰るための唯一の“みち”。道が完全復旧するのは12月。番組では、故郷へ帰ろうと支え合う人々を追いかけ、道によって変わってきた小さな集落の暮らしを見つめる。
NHKアーカイブス 新日本紀行ふたたび
集落近くの山肌に亀裂が見つかったための崩落防止工事が去年の12月まで行われていて、その間、当該地区の全世帯がが地区外での避難生活を強いられていたのだが、番組では仮設住宅で一人暮らす、かくしゃくとした、本当に見事な感じのお婆さんが出てくる。80歳すぎてあれだけ話して、ご飯を食べて、あちこち歩き回って、畑仕事も一日やって、カメラが捉えているその婆さんの佇まいに感動する。皺に覆われたような顔も、曲がった腰も、被災生活によるストレスで横腹から背中にかけて広がっている皮膚疾患も、すべては表面上の事に過ぎなくて、それらの外殻をまといつつ、悠々と、ただひたすら安定して信頼に満ちた所作で毎日駆動し続けるポテンシャルに満ち溢れていて、いわば「生きて活動する上で最強の実績をもったプロ」としての理想的な老人を見たような思いにすら捉われる。…やがて復旧工事がおおむね終わり、仮設住宅から元の実家に帰れて、数年前に亡くなられたご主人のご仏壇にも久しぶりに手を合わせることができて、観てるこっちは「おばあちゃん良かったですねー」とか言いたくなくなる訳だが、本当にそんな安直に「よかったねー」と言えるのか?僕よりあの婆さんの方がよほど生きる力を持ってるのではないか?あれほどの力を僕はその数分の一でも持っている自信があるか?という気もしなくもない。。極端な話、「食うか食われるか」の状況になったら、僕(や僕の家族)は、たぶんあの婆さん(やあの婆さんを支える何か)に簡単に「食われる」ような気もする…。
ところでこの「深見」と呼ばれる奥能登の集落は、三方を山に囲まていたため、そこに住む住民たちはまさに文字通り「陸の孤島」生活を送り続けてきたのだ。大きな町との主要な交通手段は船のみで、海が時化るとそれも閉ざされるため、どうしても必要な際には、数キロにもわたる海岸沿いの険しい岩場を徒歩でつたうように歩いていくしかなかったのである。そのときの映像が当時の「新日本紀行」に残っていて、その一部も番組中に差し挟まれているのだが、とても60年代には見えない、明治初頭ではないかと思われるような映像に驚く。漁業と畑作による自給自足生活。夜になると集まって神様に祈りをささげ手をあわせるような、そういう毎日を送る小さな共同体の姿である。
やがて“みち”が開通し、町との行き来が容易になって、それ以降はもう「豊かさ」とか「文明」とかが留まることなく雪崩れ込んできたのだろう。住民はそこでほぼはじめて通貨を用いた「買い物」を経験することになるのだ。1973年の「新日本紀行」では“みち”が開通してから数年たった人々の暮らしがどう変わったのかを取材していて、週に二度やってくるトラックが運んでくる肉や果物など、今まであまり食べた事の無い食物を買い物をする住民の様子をとらえた映像や、人々へのインタビューがとらえられている。
そこで取材者とやり取りしていた郵便配達のお爺さんが印象的だったのだが、いつも歩いて配達してるんですか?車に乗らないんですか?との質問に「いやー歩いてでええよ、4キロか6キロくらい歩くよ」と応える。“みち”ができて、便利になったでしょう、との問いには「うーん。いやー“平ら”になったねー」と応える。“平ら”になった、という答えが素晴らしい。たしかにそれはその通りで、“みち”なんていってもごつごつしていたものを平坦にしただけの事なのだ。それが便利なのかどうなのか、そもそも自分とかかわりがある事なのかどうかは、これからわかることだろう。