体験とは、意識が対象に対してOpenしている状態で、それは自分の意志で制御する事のできない状態である。それは要するに、ハングしている状態ともいえる。それはある意味最高の状態なのだが、ほとんど死に体である。Openは脳内演算処理速度の限度一杯まで使った無限ループであるが、そこである「フレーズ」(全体の中のある一まとまりと思えるようなもの、心のよりどころ。形態。。)信号を感受したとき、Closeとなってループをbreakして抜ける。そこで「フレーズ」にフォーカスを移したとき、そこでは記憶と記憶の響き合いであり、そのときに「すばらしい」などという愉悦の感情を感じる事がある。その愉悦感とは、Open時の記憶+Open状態から持ち帰ってきたフレーズ+そのフレーズが呼び起こす別の(過去の)記憶の連鎖。によってひきおこされているものと思われる。このOpenとCloseの運動がめまぐるしく起こると、その体験自体は大変強い印象となって記憶に残る。そして後から、その強い印象となって残った記憶すべてに、ある作品の印象、というレッテルが貼り付けられる事になる。
すばらしい、と感じているときは困る。体験中に「すばらしい」と思ってしまうと、そのCloseしている一瞬だけ、作品にコミットしていないので、その瞬間にけっこう大量に取り逃がしている可能性があるからだ。なので本当なら「すばらしい」などとは全く思わない方が、望ましいのである。だから、ある種の作品というのは、意識のOpen状態を、可能な限り細大にまで引き伸ばす事を目指していると、とりあえずは考える事ができるのだろう。もちろんOpen状態のまま、開きっぱなし。という状態では、人間は生きられないので、いずれ閉じなければいけないのだから完全な達成は無理なのだが、しかし、それを可能な限り最大に引き伸ばす事で、間違っても「すばらしい」などと思われる余地の無い状態に、限りなく近づく事ができる。
とはいえ、ある種の作品を前にしたとき、「…よくぞここまで」という畏怖とも尊敬ともつかない思いに囚われることがある。よくぞここまで、よくぞここまで開こうとするものだ、よくぞここまで我慢できる、よくぞここまで恐れずにやれるものだ、という驚き。その恐怖や不安に対抗する覚悟のほど。その熱い情熱。そのような作品の前に、いつまでも立ち尽くしている事もある。そのとき自分が感じている感動としか言いようの無い感情とか共感の思いというのは、おそらく誤りで、おそらくそういう見方は自分の勝手な思いに過ぎず、間違っているのだが、作品というのは必ずしもそれ自体の体験に感動している訳ではなくて、その作品を実現させた人間のちからに感動・共感しているところも、やはり少なからず、あるのかもしれない。でもそれをことさら否定する必要も感じない。作品それ自体の体験を純粋化させたい、という思いも所詮は信仰に過ぎないとも言える。
いや前言撤回。信仰かそうでないかなど、どうでも良い。というか、そう簡単に単純に断定できない何かが現前する事こそが、作品が存在する理由なのだ。だからこそ、現実に存在する作品を前にしたとき、はじめて、言葉では歯が立たないような、その実在する「力」を感じるからこそ、作品に感動するので、要するに頭で考えていた浅はかさがばっさりと切られて、自分の甘い見積もりが裏切られたときに、感動が襲い掛かってくるのだ。…まあ、だから、それも結局は、作品それ自体の体験ではなくて、自分を振り返ってるだけなんだけど、まあそんなものだろう。)
というか、そういうごちゃごちゃした話は置いておいて、再度あらためて、その作品を観たとき、ほんの微細な要素と要素のぶつかり合い。フレーズのたちあがりを感じたとき、自分の中にあった甘い「感動」が引っ込んでいって、だんだん自分が消えるのも事実だ。体験があらわれ、ふたたびOpenとCloseが明滅するかのようにめまぐるしく繰り返されていく。そこにはいわゆる「素晴らしさ」も「感動」もなく、妙に切実な緊張だけがある。一旦Closeして、この世の法則とは別に作用する重力の効果、その感触の記憶を持ち帰って考える。作品の体験の一番基盤にあるものとは、この切実な緊張感。この重力の感触を感じることであろう。しかし作品とは、それだけがあれば、良いのか?それさえあれば、充分か?このほかにも何か必要か?