trio


ビル・エヴァンススコット・ラファロポール・モチアンも、それぞれ同じ時間に同じコードの中で同じように、はじめる。…あまりうまく言えないがとにかく同じように、はじめるのだ。少なくとも「俺が上をやるからお前は下をやって、お前はこっちの役割をやって」というような感じは、全然ない。ただ、いきなり同時にはじめている感じがする。それの連続でずっと演奏してる感じがする。


ビル・エヴァンス・トリオの演奏はまるで料理のようだ。中華料理でもイタリア料理でもなんでも良い。自信に満ち溢れて、それをこう捌いてこう加工する。そのことの是非は我々の範疇ではない。今までの記憶とか経験とかしきたりとか歴史とか、そういうものに押し出されて出来てくるもの。良いとか悪いとか、美味いとか不味いとか、そういう事とはべつの、続けていかなければならないこと。その仕事としての音楽。


ビル・エヴァンス・トリオのの繰り広げたインプロヴィゼーションが世界最高峰のものだというのはよくわかる。インプロヴィゼーションというとき頭の中に自動的に立ち上がってしまう、人と人とのコミュニケーションみたいな、あるいは戦いみたいな、対話みたいな、そういうわかり易い次元を遥かに超えた現実的な体感的な空間がありありとあらわれる。ただ単に、いきなり同時にはじめている。その辺の原っぱの地面のあのへんとこのへんに、適当に草とかが生えてくるような感じにはじまっている。


三人が同時に演奏しているのが重なっていて、しかもそれらが渾然となっているとき、それらを簡単に把握できるわけが無い。たぶん何百回聴いても結局は、その時間での出来事について完全にわかる事はないだろう。たぶんその時間の中で何度も何度もある衝撃というか、ある重なり、ある触れ合い、ある化学反応が生じて、そういうのに恣意的に反応するだけの我々聴き手が、ああこの演奏はこうだと勝手に思って程よいと思ったところで適当に再生を止めているだけのことで、その演奏自体は汲めども尽きぬものである。


ビル・エヴァンス・トリオの演奏の上品さ。このシンプルさ。必要最低限の要素だけ。ピアノ・トリオである以上、ピアノ・トリオ以外のものは極力廃する。当たり前のようでいてそういうのはなかなかない。演奏しかないということ。ピアノであればピアノでしかないということ。その本来とても困難なことを実現させるための、ピアノのタッチというか、そのアタックの慎ましい一定さ。加わる力の安定感。フレーズを送り出すときの手つきの確かさ。信頼性。技術というのは運用の信頼性のこと。それを保たなければ垣間見えないもの。あらゆる言葉や印や記号のない、モノだけの世界というか、音だけの世界というか。ほんとうにフレーズしかない世界というか、文字通りの、シンプルな世界。それを支えているものは決して目に見えないということ。目に見せない、その気高さ。


どこまでもずるずると、酔って寝そべって、だらしなく力を抜いた、手足を投げ出した、靴を脱いで蹴飛ばした、髪の毛をグシャグシャにして目をぎゅっと瞑って開いて、あくびをして、ため息のような、笑い声のような、甘えたような、すねたような、媚を売るような、流し目のような、口元に浮かぶかすかな笑みのような、ふと気が変わって横を向いてしまったような、黙ったままの横顔のような、寝そべっている後姿の背中のような、交差させた足の虚空を蹴り上げた格好で突き出した足先のような、背凭れを抱くように寄りかけて力を抜いた二の腕のような。


そのような、そのような、そのような、すべての、ありとあらゆるしぐさや動作の、それにともなって沸き起こるありとあらゆる感情のような。


ビル・エヴァンス・トリオの演奏を聴くのはこちらにお構いなしで、こちらの存在を生涯一度も意識することなく生きている誰か他人の挙動をじっと眺めているのに近い。まるで片思いのような。でも作品というのはすべてそういう風にしか体験できないものなのだろうけど。(作品と両思いになることが出来た人間はたぶん有史以来一人も存在しない。)


あるいは、ビル・エヴァンス・トリオの演奏を聴くのは。


ビル・エヴァンス・トリオの演奏を聴くのは、植物をぼーっと見ているのに近い。いま完全にビルエヴァンス中毒状態で、聴けるときはずっと聴いているし聴いてないときはずっと頭の中で鳴っている状態。もう何度聴いたのかわからないようなWaltz for DebbyやMy Foolish Heartも、あらためて聴いて、やはり良い。良いというか、まだ新しい発見がある。Alice In Wonderlandの素晴らしさ。モントルーのSomeday My Prince Will Comeの圧倒的な音の粒立ちと奔流。Gloria's Stepなんて、ほとんど今この、六月そのものという感じ。雨のあがった、気温の高まりにむせかえる空気の、いつまでも濡れた路面の、目に見えず耳に聴こえない小さくてゆるやかな変容の過程そのものとしての六月のありようそのものとしてのGloria's Step。自分でも何を書いているのかよくわからないが。あるいは、ビル・エヴァンス・トリオの演奏はまるでアジサイみたい。細かい花と白い小さな羽根のような花弁が不規則に気の向くままにあちらこちらに点在している。


さっき、ビールを買いにコンビニまで行った。今日はずっと雨上がりの状態が何時間も続いているような感じだった。雨はあがっているのに、地上はいつまでも乾くことなく、ずっと濡れていた。そのまま夜になった。車も人も皆無な、黒く濡れてところどころ外灯の光を鈍く反射させているアスファルトの路面に、センターラインやバス停留地点の白い線が掠れた状態で浮かび上がっていて、おそろしくキレイなので胸が躍るような思いでそれらを見ながら歩いた。