ここ数日、Ricardo Villalobosをよく聴いている。聴きたくて聴いてる訳ではない、というと言い過ぎだが、でも決して積極的に聴きたいと感じている訳ではないことも確かだ。でも、とりあえずこれしか無い、という事になってしまい、それを聴くのだ。
この人はクリック・ミニマルとか、それ系の人というカテゴリーになるのかもしれないが、どう聴いても、決してミニマルではないと思う。そんな志向性など、カケラも感じられないとさえ言える。では、どういう志向性か?何をしたいのか?というところで考えると、これが異常に掴みがたい。細かなハットやシンバルの重なりや連ね方を聴いてると、単なる中途半端なジャズではないか?とも思うのだが、それで腑に落ちる訳でもない。何かを待つかのような、ほんとうに何のこともない間の抜けた四つ打ちのひたすらの持続で、これがいいんだよ、理屈じゃないよ、みたいなとらえ方もありなのだろうが、そう言い切るのも微妙に憚られる思いを禁じ得ず、一言でずばっと、要するにコレ系で…みたいな云い方で説明するのが極めて困難である。コレ系で何々で、などという説明のとき、大抵は必ず、当該の作品以外の作品群の広がりをイメージさせて、それらの分布図のこのあたりに位置する、みたいな、そういう落としどころにもってくパターンがよくあるが、で、Ricardo Villalobosに対してそういう事も、もちろん可能なのだろうが、でもしれではRicardo Villalobosの音楽は手からするりとこぼれ落ちてしまうようにも思われる。
要するに、こういう音楽である、と説明するとき、何よりもその音楽自体が、そのように存在される事を願っているというか、そのようでありたい、という熱意とセットになって存在しているというか、そういうたぐいのモノであると、まあわかりやすいのである。それは無言のうちに、自分の帰属先が表面に刻印されているようなものだからだ。そういうのは与しやすく、わかりやすく、説明もしやすい。
でもRicardo Villalobosの音楽はやや厄介なのだ。まず端的に疑問なのは、Ricardo Villalobos氏本人が、これらの作品を本当に面白いと思ってやってるのかどうか、微妙にうっすら疑わしいような気配さえ、あるということだ。いやそれはかなり言い過ぎで、たしかに面白いし、おどろくべき瞬間も多々あるのだが、でも、そうじゃない瞬間も、ちょっと驚くほど多いように思われる。これはこrでこういう感じで延々続いていて、それで大丈夫なんですかね?という空気に対して、いやーわかんないけどーみたいな非常に脱力をおぼえるような態度に終始しているという点においては、かなり徹底しており、あ、それだと回り回って逆の意味である意味ミニマルかも、みたいなほとんど意味不明な地点にまで考えが巻き込まれてしまうようにすら思う。
面白いと言うことと、そうでもないと言うことを、おそろしく大きな、おおらかな仕草で、宝石も財宝も新鮮な魚介類も泥もヘドロも土砂のかたまりも不燃ごみも、すべてをすくいあげて平然と地上に晒しておく巨大な網のようである事が望ましいのかもしれない。その事の責任や後始末など、まったく気にせず、飄々とし続ける。…という態度そのものでしか、責任をとらない、という事。
なんだかんだ言っても、Ricardo Villalobosのすべてのレコーディングを聴いてる訳ではない。今まで聴いたのはFabric 36、Fizheuer Zieheuer、Vasco EPだけだったりする。でもこれだけでも聴き応え充分な物量だと思うが。。とりあえずFizheuer Zieheuerは一番好き。これの一曲目が一番、笑える。再生して3秒くらいすると、間抜けな管楽のサンプルがループする馬鹿馬鹿さが、とりあえず笑える、という意味で、かつ、その後同じ状況が延々30分以上続いてしまうところも含めて、一番好き。笑う余地がある分だけ、とりつくしまがある感じ。いやそこがむしろ弱さかもしれないが。