「ガー」


中原昌也 作業日誌2004→2007」より引用(224頁)

3月2日
午前中、某ノイズ・アヴァンギャルド系ネットショップからカセット、CD、LPなどいくつか注文したものが届く。また例によってアメリカとスウェーデンのアーティストのものが多い。でも聴いてみると大半が案の定「ガー」という爆音がひたすら続くだけのもので…いや、大半の人はこの手のものは、ただ「ガー」という音だけの退屈なものだと決めつけているのであろうが、いくらそういうものに普通の人より免疫のある僕(というかライヴでは「ガー」という音ばかり出している人間のひとり)でさえ、これらはちょっと「ガー」だけ過ぎはしないか?と思う。「ガー」の中にも「ピー」とか「ギュワギュワギュー」だの、「ギギギギギ」だのいった(些少な差異ではあるが)音を聴き分けるのが、この手の音楽を聴く楽しさのひとつであるのだが、本当にこれらは「ガー」というのが最後まで変化なく続くだけであった。中には大人数の人間が関与しているのに、単独の人間が出す「ガー」と何ら変わりないように聴こえるものもあった(しかも一切変化のない「ガー」が、大盤振る舞いとばかりに際限なくCDの収録可能時間目一杯に収録)。何が楽しいのだろうか…僕個人は今後これらを聴いて楽しむことはないだろうが、この人たちのやってることを否定するようなことはしない。また、たまにこれらが「ガー」そのものしかないのを忘れて、同じようなものを買ってしまいガックリくることもあるかもしれない。しかし、怒らない。もっと頑張って欲しいとさえ思う。厳密にいえば「ガー」オンリーではないCDも何点かあったので、少し安心。

上記の文章は感動的。自分などこの境地にはまだまだ至れない。仮に「ガー」だったとしても怒らない、というのは僕もできるが、でも明日もあさっても、手当たり次第に手を出して、「ガー」だろうがなんだろうがひたすら手を出す、というところが圧倒的に素晴らしいし、僕にはできない。僕の場合、なさけないことにまだどこかに色濃く、今までの自分の蓄積と、これから入手して加わるかもしれない新たな要素、といった構造を信じていて、そのあらかじめのイメージから外れた事態を微妙に避けてるような気がする。どれだけ意図的に、それをはずそうとしても、却ってその構造を強化してしまう。


もちろん「ガー」だけをひたすら買う、という行為自体にも、それを支える何らかの構造はあるのだろうが、でも「ガー」に開き直る方が、たぶんよっぽど人や世界にとって無害で好ましい方向に近いような気がする。僕など未だにあの自慰的で忌まわしい「コレクション」みたいな嫌らしさから、完全に抜け出せていないのかもしれない。僕もなるべく「ガー」の味方で在りたいし、僕自身ももっと「ガー」でいきたいと思う。