「絵画」磯崎憲一郎


雑誌「群像」二〇〇九年五月号より。すごい。小説のすごさというのは、本当にものすごい。でも例によって、その作品について、作品を通じて得た体験について、何か書くのは難しい。細かい事一々書いててもしょうがないじゃん、という気持ちと、いや、何か書くなら、細かい事に一々立ち止まったという体験の文章化しかありえないじゃん、という気持ちが矛盾のままぶつかり合う。仮にもっともらしい感じに書けてしまったとしたら、その事がそのまま作品からかけ離れたつまらなさに直結してしまうジレンマ。引用をはじめたら、もうどこまでも書き続けるよりほかなくて、それしかない、と言うことをわざわざ文中に告白するというワザで切り上げるよりほかないような自分に与えられた選択肢の貧しさ。…そういう厄介さに、マトモに直面させられる。とてつもなく自由で類い希な文章の、その自由さの内実について何か書こうとして、結果的にあまりにも不自由な文章において説明するというばからしさ。でもとりあえず、書くしかない。


チョウが飛翔する描写からいきなり、春という季節(5月といえば初夏に近いが)がもつ特有の過剰さが辺り一面にたちこめるかのようだ。それと同時に一億五千万キロという抽象的な架空のフレームに囲われることで、太陽の光とそれが波打つように翻弄されるゆらぎの余地が構成され、そこに吹く風には、ハッカの香りが添えられさえもする。その時空に、止め処もない勢いですべてが芽吹き、みのり、噴き上がり、垂れ下がってゆく事のグロテスクなほどの物事すべてのうごめき。しかしベンチの間に無理矢理押し込まれて変形しているサッカーボールの圧迫された変形の度合いで、まるでそれが重しのように一発で、その本来溢れ出しそうな筈の過剰さを押しとどめるかのように覆い被さっている。


マルハナバチがハルジオンの花に拒まれてしまうが、しかしそこでハチはここではっきり、拒まれてもあきらめず再挑戦する、という感じに描写され、「左右に逃げる花を追い回して」、やがて「花びらを二つの前足でしっかりつかむと、急いで羽根をたたみながら大きな頭を花弁の奥深くまで突っ込んで蜜を吸う。」のだ。というか、なぜここまで書くのか?というか、だれがそこまで見ていたのか?誰が書いてるのか?が宙吊りにされたまま、そんな事お構いなしにどこまでも細部へと眼差しは分け入っていく。…というか、登場人物である画家は、十日ほど前に六十才になったばかりだという事、歳をとるという事は、どうしてこんなにも自由なのか?というつぶやきが唐突に挿入され、この事に読んでいる僕は軽く動揺し、滲むような感動をおぼえる。なぜかわからないが、ああやっぱりそうなのか、なら僕も早く自由になりたいものだと痛切に思う。


巨大なコイは、まるでサメのようだ、とその画家は思うのである。餌を求めて「コイなりの方法で足音を聞きつけて集まってくる」ような「そこだけ人肌をしているのに機械的に開閉を繰り返す丸い口」の、それは確かに、コイとしか言いようのないものなのだろうが、しかし同時におそらくそれはもはや、コイではないだろう。それはおそらく、サメとコイと、あと他の別の何かが、MIXされたような何かでしかなく、深緑色のカメがそのコイたちの中に混ざっているに至っては、もはやそれは何の事やらわからなくなってくる。


「タカとまではいわないまでもカラスほどもある」くらいのカモについてもそうで、そんな風にいわれると、タカとカラスとカモと、あとなぜかシロサギまでもMIXされた何かが、思い出される、というか、いや、ここでは大きさについての話なので、タカの輪郭線の中に、ひとまわり小さなカラスの輪郭線がはいり、さらにその中に内実をもったカモがいる、という感じになる。さらに誤読して、それを白サギだと思っていると、余計にややこしくもなる。逆に言うと、カモ(シロサギ)の輪郭線が外側に対して、少なくともカラスからタカくらいの大きさに属するくらいには不安定にぶれているというイメージさえ、たちあがる。


というか、それはそれとしても別に、コイの丸い口が、そこだけ人肌をしているからといって、その箇所が機械的に開閉を繰り返してはならない理由など何もないし、若い奥さんと子供の親子がサギを見てお母さんが何かを喋り、やがてそこで歌を歌い始めたからといって、そこに登場する歌が、サギを題材にした子守歌でなければならない理由だって、まったく無いのに、なぜかそれが、そうである事実が、不可解で不条理なものとして浮かび上がってくる世界である。足下のハトが薄茶がかった、彫刻のように不自然な首をもっているのに、そのハトがドバトなのかキジバトなのか、キジバトであれば、あれは良い声で泣く、という事だけが、強く浮かび上がってくる世界でもある。そして、中年の男と女の奇矯な行動が、なぜか自分の足場の不安定さに異様なまでに直結され、女の動作が直接的に自分の安定を揺るがせもし、しかし、その事はそのまま、「安定」という概念への思惟へと変貌してゆき、自転車であればゴム製のタイヤによって振動が吸収されるのかもしれないという仮説を生み出す余地を作り出し、そこまで読んだ僕も思わず、いや人間が地面を踏みしめて歩くというのは予想以上に大地に対して衝撃を与えるもので、元々自転車などという車輪の回転移動などとは、その自重の差を差し引いても比較にならないくらい振動発生度合いに差があるのではないか?などというおそろしいまでに何の役にも立たな想像を生み出す余地さえ用意してしまうのだ。


しかし、やがて物事は推移してゆき、ことの成り行きが成り行きらいきもっともらしさをまといはじめ、ある種の不吉さすら漂い始める。「こうなることは予め仕組まれたことなのだから」「お前はまだ何も分かっていないな」「分かっていないのはあなたのほう」…何かが分かられている、あるいは分かられていないというときの、ある種の時間の堆積がぼんやりと輪郭を浮かび上がらせ、しかしその肉体が破壊され、あるいはサメによって、コイによって、どう猛に食いちぎられる予感へと直接つながり、またすべてが夢の気配をたたえ、ものがたりめく。


そして、いよいよ、白サギが、身の丈ほどもある両羽で、「その羽の白さで周囲を同じ色に染め上げるかのような、この場の時間を巻き戻すかのような」動きをみせた瞬間がおとずれる。


おどろくべき速度とちからで、一挙に地空間変動がおきる。SFのワープというのは、こういう感じだろう。この衝撃はすさまじいものがある。短編のコンパクトな構成が、効果を倍増させているところもあるのかもしれない。(この小説は磯崎憲一郎の最高傑作ではないか?などと、こういう箇所に差し掛かるとつい、そんな風にさえ言いたくなるところもある。)そんなことより、ここで、世界がひとつ消滅する。いや、それは単なる移動だ。消滅などしていない。しかし、移動とは、結局のところ消滅なのだ。記憶の欠落であり、二度と元には戻せない大幅なジャンプなのだ。一度移動してしまったなら、もうあのことは、二度と起こり得ない。


そのあと、地球は今から四十六億年前に誕生して、マグマの中の鉄やニッケル合金、西暦二一〇〇年には、日本の人口は現在の一億二千万人から六千万人まで減少する。といった、時間やモノの属性を示す単位表記や具体的な数値といった抽象の硬質さをたたえたことばが畳みかけるように積み重ねられ、そこで一旦また、すべてもう一度、「視界のすべてのものがもう一度改めてちりばめられて、配置し直されて、」そのバスはもう、ぜんぜん、1メートルも進んでいないのだ。そう、物理的にはまったく移動しておらず「決定的な流れが止まってしまった」ようなのだ。「絵画」とはそのような時空で、改めて「視界のすべてのものがもう一度改めてちりばめられて、配置し直される」ものであろう。


文章というのは、始めと終わりがあるので、それを始めから終わりに向かって、同じように読んでいくしかないような構造をもっているのは確かだ。しかし、幸か不幸か、人間の記憶は、始めから終わりまで情報を読み込ませても、それを整然と容器におさめて保存しておけるようなものではない。結局、今その情報が吟味され、それが0秒後には既に部分的に消失して、あっという間に大幅に欠落しており、しかし直ちに送られてきた新たな情報が整合に配慮されず上書きされてしまうので、前の情報と次の情報は、それを前とし、次を次とする判断の根拠すら、やはり0秒後には担保されていないため、要するに文章を始めから終わりまで読んでも、それは読んだ直後から、始めでも終わりでもない只中でしかなく、今この瞬間の物事の変容でしかない。


それを読むとき、そこに何かが起こる。あるいは大きく変容する、あるいは激しく失われる、という事で、それらの経験を数十分かけて味わい、やがて振り返って全体を見返し、ここで一体何が起こっていたのか?全体的に、過去のどんな経験に似ていたのか?を思い出す、という事しかできない。