新宿へ行くのは久しぶり、でもないかもしれないけど、久しぶりの感じがする。いや、つまり、初台へ行くのが久しぶりなのだ。もしかしたら、二年ぶりとか、三年ぶりとか、四年ぶりとか、そういう、それくらいすごい時間が空いているかもしれないくらいだっていうことで、ICC ONLINE「大友良英 音楽と美術のあいだ」をみる。


会場の、展示物のある空間にに入ってしばらくして、これは大したことないかも?と思ったのは、単にシルエット状の人物が演奏しているだけの、いわば映像作品の範疇を越えてないように思ったからだが、しかしひとまず、その場にしばらく居て、それで結局、かなり長時間その場にいてしまって、これはやはり、来て良かったなと思った。


とても素直に、演奏を聴きなさいというスタイルの展示だったように思った。別に小難しい理屈は無くて、ひじょうにだらっと、いつまでも終わらない、たらたらとしたノイズというかグリッチ系というか、そういう周波数的なのを浴び続けるような感じ。その場にしばらくいれば、まずそれを、お風呂に入ってるみたいに、ああー気持ちいいと思って聴いてるだけみたいな状態にはなる。


真っ暗闇の空間の、真ん中にデカイ四角い箱があって、その四面にそれぞれ何らかの楽器を演奏している演者のシルエットが投影されている。何らかの演奏音が聴こえてくるとそれに追従して、空間を構成する四方向の壁の上を、まるですべるようにして、音にまつわるかのような、音のイメージとも、演奏楽器のクローズアップしたものとも、その空気の振動が織り成しているものとも思えるし、そうでもないかのような断片的と言っていいようなイメージが動き、消える。


四角い箱の四面には演奏者がそれぞれ演奏を続けているが、しばらくするとふと席を立ち、消えてしまい、やがてまた別の楽器を持った別の演奏者がその場にあらわれ、すわり、楽器を演奏し始める。


空間の中にいると、当然ながら四角い箱の四面すべてをみることはできないから、多くても二面を見ているのだけど、演奏の途中でじょじょに別の音が紛れこんでくることに気付き、あれ、さては反対側に別の奏者が来たな?と思って、歩いて向こう側に回り込んで反対側のスクリーンを見に行く。そうして観客がうろうろと歩くと、四角い箱に投影された映像はしばしば歩行者によって遮られて、大映しになった観客の影が通り過ぎていって、またもとに戻る。


まず、演者の存在感を、大きく減衰させることができたのだなと思う。シルエットになっているから、演者が誰かわからないし、いつあらわれていつ消えるかもわからないし、何をどうやって演奏しているかも正確にはわからない。というか、演者という感じがせず、誰かが部屋に一人でいるところを、こちらが覗き見しているかのような感じもある。通常なら、とくにこの手の音楽であれば、皮肉なくらい演者の仕草、手つき、演奏技術的なものに対して、聴き入ることの取っ掛かりというか、根拠を求めてしまいがちな部分に、このような視覚的作りこみを施したおかげで、きれいなガードを貼ることができた。


そして、観ているこちら側からすると、四人の演者のうち最大二人しか、今やってることがわからないというのも面白い。反対側の演者がどんな楽器で何をしているのか?そもそもいるのかいないのか?もわかりづらい。耳に聴こえてくる音と、彼らメンバーに関係があるというのはわかるが、そこに役割分担があるのか無いのか、目の前の人の行為が今全体に対してどのように作用しているのか、反対側の人を、音を聴いているのかいないのか、そういうのを想像で補いたくなる感じだ。


相手の次の行為を想像する、見えないものへ配慮する、という言葉の容易さ。そもそも楽器というものを、そのような道具として使うのが極めて難しいというのはすぐにわかる。ほとんど皆、すぐに上達してしまって、すぐに何かに奉仕し始めるのが普通だからだ。


でもさすがに、ここに他者への配慮みたいなものが実現しています、とは言わないが、それは実際ほぼ不可能というか、ありえないような奇跡に近く、その手前を逡巡せざるを得ないのがほとんどで、たぶん今回のこの展示もそうだと思ったが、しかしあきらめずにこういうのを試みなければいけない。最近はちょっと気が緩むと、別にもう、ことさら面白いものがあるわけでもないし、とりあえず何でもいいや、みたいな気持ちになることもあるけど、いや、なんでも良いなんて、そんなことがあるわけ無いだろう、と思わなければいけません。観る人間も気を引き締めないと、これからはとくにだめ。


そのあと、東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館で、「クインテット?−五つ星の作家たち−」も観る。これは作品一点一点がどうこうというよりも、全体的に、衰弱というものを感じてしまった。絵というのは、ほんとうに、どうすればもっと怒るのだろうか。なんか、もっともっと、ずっと深く歪んで、矛盾と未熟と羞恥と退屈みたいなものが、ドバドバと出てしまうようなことには、もっとならないのだろうか、それはどれが、誰がそうか、僕が自分の中だけで、そうなればいいのか、どうなのか、みたいな。まあ、でも怒りなら僕も最近はきわめて減衰の方向であり、まさに下の歌みたいな感じで、このままでは実際、しょうがないなあと思っている。自分で自分の背中をバチーンと叩かないとだめ。