中目黒の朝


日比谷線の終点。この電車の終点です、中目黒止まりです。電車はこの後、車庫に入ります。どなた様もお忘れ物ないようご注意下さい。回送電車となります。お忘れ物ないようご支度下さい。ドアが開き、異常に冷たい風が直接車内になだれ込んでくる。同時に空調は停止され、たちまち車内温度と外気温がまったく同じ温度となる。ドアは意図的に開け放たれたままにされる。我々がその場を立ち去るまで二度と閉まらないのだ。寒さが一気に全身を包み、あらゆる隙間から身体に冷気が射し込んできて、呼吸がやや困難となり、全身の力が不思議なほど入らず、痛苦の感覚を通り越して意識がぼんやりと薄らいで来るかのようだ。いま自分は、寒さというものに剥き身で向かい合っていて、そのままやられてしまいそうだ。さっきまで周囲にいた、まだ眠りに落ちている人々や、機敏な動きができなそうな人々が、駅員の手で片っ端から容赦なく叩き起こされてそのまま崩れ落ちて床に這いつくばっている。終点ですよ、終点ですよ、終点ですよ、終点ですよ、さぁ終点ですよ、降りて下さい!みな呆然とした顔のまま鞄とコートを抱えたまま転がり落ちるように電車から降ろされる。酷く衰弱している人も少なくない。そのまま氷のように冷たいベンチの上に身体を横たえて動かなくなる。あんなところで横になっていたらもう助からないかもしれない。でも助けられない。そうして、半ば暴力的に車内の全員が降車するやいなや、各車両の先頭部から車内に向けて張り巡らされたホースが生き物のように膨らんで一瞬うねうねと暴れたかと思うと、蛇口から間髪入れずに勢いよく水が吹き出て激しく水飛沫を散らせながら叩き付けるように電車の床を濡らし、川のように盛大に床を流れる大量の水が車体の下を伝わって滝のように線路に落ちる。辺り一帯、激しい水の音で何も聞こえなくなる。熱をもった車体下の機関部も水を受けてそこからもくもくと朝日に照らされた真っ白な湯気が車体の周りに激しく立ち昇ってプラットホームの向こう側の景色が何にも見えなくなる。運悪く水飛沫をかぶって衣服を濡らしてしまった人は直後の急速な冷え込みに身体の熱を根こそぎ奪われてもはや万事休すの状態。あちこちから噴出したり漏れたり方向を変えたりして飛び散る水を皆必死に避けて逃げ回る。それにしても狭いホーム上で右往左往してばたばたとしているにも関わらず相変わらず身体の芯まで凍りつきそうなほどの寒さで、これでも僕はまだ通勤中の身で、今の地点は道程でいうと出発地点から目的地までの、ちょうど半分位までの地点でしかないのに、なんでここまで苦労するのか。なんでこんなに辛い思いをしなければいけないのか。なんでこんな苦労までして目的地にまで辿り着かなければいけないのか、悔しくて悲しくて、心の底から情けなくなる。何なんだよこれは!何者かに対して、何ともしれない何かに対して、沸き立つような怒りがふつふつとこみ上げて来る。この後向かいのホームに乗り継ぎ電車が来るのは、今から約十分後だ。十分!そんなに待てるか!!この寒さにあと十分立ち尽くしてみろよ!普通みんな死んでしまうぞ!なに考えてんだよ!!何も考えてねーんだろ!!やり場のない怒りの罵声を空に向かって吐き出し続ける。実際、こうして怒りに身を任せてでもいなければ、あまりの寒さに全身の感覚が麻痺してあっという間に意識を失ってしまいそうでもある。同じ車両から一緒につまみ出された他の乗客が今生きてるのか死んでるのかもわからないまま、ただひたすら発端も目的も見えないままで怒りの炎を焚きつけ続けるしかない。