眼球を、人工的に作り出すのは、今の人間の技術ではまだ、到底できない事なのだろうか?レンズから集められた光の情報を電気信号に変換して脳に送るだけのことなんじゃないのか?…とか、恐るべき素人考えも甚だしい?まあ、そう簡単ではないのだろうし、簡単ならとっくに実在していることだろう。人工の内臓機関だってかなり色々難しいのだろうから眼球となったら後何十年とか、あるいは百年以上かかるのだろうか?
何しろよく考えたら、眼球というのは本当にものすごい機関だ。とてつもなく高性能な精密機器である。見るという事を休みなく続けながら、ひたすら延々と運動しまくっているのだ。静止している事が稀なほど動いている。上下左右を、がっしりとした筋肉が協力に引っ張っていて、それらが縦横無尽に伸び縮みして軽快になめらかに稼動する。眼球が見て、それを受取った脳が感じて、それが筋肉と神経に伝わって連動して、動いた眼球がまた見て、という一連の動作が、休む事無くなめらかに展開される。どの部位もまったく問題なく動く。相当複雑な仕組みが超高速で駆動しているにも関わらず故障もせずに動く。デバイス的な齟齬や中間介在物の違和感もない。いや、違和感も齟齬も本当はあるけど既に気づけないだけかもしれないが。いずれにせよ、ものすごい運動性能の機関なのだ眼球というのは。
眼球の動きだけに着目していると、眼球自体がまるで一匹の昆虫の動きをなぞっているかのようだ。その目まぐるしい動き方はかえって無目的・意志の無さを思わせる。ある本能的な先天的な力に支えられて駆動している感じだ。それ自体で勝手にいつまでも動き続けている感じだ。人が死んでも、その眼球だけはしばらくの間、ぎょろぎょろとあちらこちらを眺め回しているような感じだ。
たぶん見るという事と動くという事の、異なる二つ以上の運動が同時に行われていて、その動きがあまりにも目まぐるしくて相互の関連性と目的が希薄に感じられてしまうから、そのような印象になるのだ。虫の動きもそうで、やたらと細かいその動作が、何かの目的をもって行われている筈なのに、目的より動きの方が先行しているような印象になって、それが妙な不気味さをかもし出すのだ。
視覚障害者でも、視覚を脳に入力してくれるような機械を装着すれば大丈夫みたいな世の中に早くなれば良いと思う。完全な視覚の再現はかなり難しいだろうが、一秒ひとコマくらいの静止画イメージくらいを連続して直接脳に送り込むような事はできないのだろうか?もしそれができたら、視覚障害者がそれを装着したとして、一秒ごとに前景の静止画がコマ送りで送信されてきたら、それはさすがに、あまりにも忙しなくて煩いので、ちょっとチカチカし過ぎて嫌だから、十秒に一回くらいにして下さい、とか言って、その辺は微調整すると良いのではないか。十秒に一回じゃあ、見えてるとは言えない?でもその間隔を詰めたとしても、結局それはやはり、ただの映像であって、視覚ではないような気もする。視覚はやはり、あの目まぐるしい眼球の動きとセットで考えるべきものなのだろう。すさまじい密度のモンタージュというか、コンマ何秒のレベルで事後編集された一連のイメージという感じだろうか。ハエにカメラを取り付けて、その映像をみても、ただ世界が上に下に横に斜めにぐるぐるとしていて何も焦点を結ばないわけのわからない映像でしかないだろうが、結局は我々の視覚もそのようなもので、それを解釈しているからこうやって落ち着いていられるだけだ。「百年の孤独」のウルスラは盲目になるが、視覚的、映像的な情報とは違うことで、ウルスラはその後も、周囲の誰にも気付かれないほど問題なく生活を続けるのだ。だから、そんなに見なくても問題ないのかもしれない。むしろ視覚は、十秒か二十秒に一回くらいに絞った方が、かえって効率的で、人間の基本性能全般を充分に発揮して生きていける可能性さえあるかもしれない。