たぶんこの小学校の全生徒だろう。200人くらいか、あるいはもっといるかもしれないが、校庭の半分を埋めるくらいの人数、きれいに整列して並んでいる。前には朝礼台があって、校長先生らしき人物が台の上に立っている。台の左右には、将棋で王将の両脇に金と銀がいてその外側に桂馬や香車がいるような感じに家来の先生が何人か並んでいる。そして前方だけでなく左右にも後方にも、子供達の隊列を取り囲むようにして幾人かの先生方が歩兵として点在して、周囲をウロウロと歩き回りながら隊列の様子を監視している。朝礼台の後方には高いフェンスが立っていて、僕は外からフェンス越しに目の前の朝礼集会を覗いている。父兄でもないのにこうしているのは、いかにも不審者っぽいような気がする。しかしここにいると朝礼全体の様子を一歩引いた距離から全体的に見られる。見えないのは後ろ向きになった校長先生の顔くらいで、それ以外はすべてよく見えるのだが、反対に並んでいる小学生たちからも、外でぼんやりこっちを見ている僕の姿が丸見えだろう。たぶん朝礼なんてすごく暇だろうから、子供達はきっと皆、外で怪しくこちらを覗いている僕のことを当然見ているだろう。そりゃそうだ。もし僕が小学生なら、とりあえずそっちを見ているだろう。見てても別に面白くもないけど。まだ外の方がマシだろうから。ということは数百の瞳がいまこちらを見ているかもしれないと思うと、それはそれで気圧されるが、でももしかしたら全然見てないかもしれない。見られてる感じがするわけでもないのだ。ひとまず確かめるような事はせず、こちらがあえて子供の顔を見ないようにする。校長先生の、初老の男性のゆっくりとしたいかにも教育者的なものの言い方で、何か喋っているのを、子供達全員が、両手を後ろ手に組んで両足の間隔も心持ち開いて、絵に描いたような安定した立ち姿のといった体で、ちゃんと直立している。テレビなどではしょっちゅう見るが、人間のこんなにきれいに整列しているのを実際に見るのは久しぶりだ。それにしてもやっぱり、なかなか不自然なものだとあらためて思った。一人一人が皆、等間隔で、ほぼ同じ格好をしているから、こんなにきれいな、整然した印象になるのだろう。とくに子供だと絶対に自発的にやってる訳ではないというところが、かすかにぼんやりとした不気味さを感じさせるのかもしれない。子供達一人一人をよく見ているとわかるのだが、どの子も実は別に、そんなにきちんと微動だにせずという訳でもなく、当たり前といえば当たり前だが、ぴったりと大人しく静止しているわけでは全然ない。ふいに片足を上げて靴の裏を見てたり、うつむいて目をこすっていたり、つま先で校庭の砂を小刻みに蹴って息を詰めるようにその先を見下ろしていたり、色々と小さな動きはある。でもはっきりと誰にでもわかるようにあからさまに動くということはなく、常に周囲の情況を意識もしていて、おそらくその肝心な部分に干渉しない範囲というものをわかっているし、監視している側も、それこそを確かめているかのようなのだ。だから集団の全体的な印象としては完全な直立不動でよく統制されている。周囲を徘徊する監視役の先生は結構たくさんいて、おそらく五人か六人か、あるいはもっと大勢がウロウロしている。一見して、監視がちょっと多すぎると感じるほどだ。隊列の周りを幾人かが監視している図というのは、やはり何か、とても禍々しい感じのするものだ。徘徊するのは周囲だけでなく、ときには隊列の真ん中を突き抜けるように、子供と子供の並ぶ狭いあいだの隙間を、後ろから前にかけてゆっくりと進みながら、左右の様子をうかがったりもする。まるでサーチライトが照らすが如く、ああしてゆっくりと頭部を右から左へ旋回させながら、変わらぬ歩調で歩いている。子供たちは後ろから先生が来るのを気配で感じる。自分の肘や背中に、ジャージ素材に包まれた大人の男性の足や手の先がずるっとあたって、整髪材か何かのかすかな残り香が漂うのをおぼえる。ゆっくりと遠ざかっていく背中を見ている。そんな視線を想像しながら、でもこれ以上見ていると僕が怪しまれる。