昨日も今日ものみすぎ。寝てしまい、さっき起きて、もう時間がない。でものみすぎることで、ああ失敗したという気持ちよりも、やれるだけやったという満足感のほうが強いのだからすくわれない。今日は図書館まで歩いたときに、よくよく思い起こさなければいけなくて、今の季節だけが、これほど気持ちいいのだということをかみしめなければと思う。
一昨日の朝に録画したものをみた「小澤征爾 復帰の夏 〜サイトウ・キネン・フェスティバル松本2013〜」での、大西順子トリオとサイトウ・キネン・オーケストラのラプソディー・イン・ブルーがえんえん頭の中で鳴り響いている。ラプソディー・イン・ブルー。ガーシュイン。それにしてもなんて濁った、グロテスクな旋律と和音。独特の臭味。これは賛辞としての言葉のつもり。というか、去年さんざん聴いていた、ビーチボーイズのブライアン・ウィルソンの頭の中が突如としてひらいてふりかかってきたかのような、アメリカ音楽の濁り。捻れているなあと。それにしても大西順子の音楽とは、あらためて聴いていて、なんと奇妙なことかと思う。あの女性が、これを弾いているのかと。これはまるで、もう何十年も前から、ひたすらピアノの前に座って、昼も夜もピアノを弾きつづけてきた、でっぷりと太ってタバコとアルコールに全身を漬けて壁のヤニ色と見分けがつかなくなってしまっているような、そういう黒人のおじいさんが、職人の仕事とも芸術家の仕事とも違うような、何か別の、人間としての理由と目的に駆られてほとんど自動的な機械のように奏でられるような、これはたとえばそのようにして聴かれることのできるはずの、ある種の音ではないかと。この音を、この女性が演奏することの不思議さをつくづく不思議に感じる。この深い濁り。どろっとした状態のまま引きずられるような、ふてぶてしいような、えんえんとソロの続く時間を聴いていた。このピアノトリオの演奏と、オーケストラが繋がる瞬間は、思わず笑ってしまうようなものがあった。あとで、ユーチューブでラプソディー・イン・ブルーのほかの演奏も探して聴いたりした。ビーチボーイズのsmileもひさびさに聴いた。
金曜日から今まで、寝てしまってばかりいて、何もまともに終わりまでいってないような感じだ。食べても飲んでもすぐに腹のなかは空になるし、なんだかばかばかしいようなものだ。仕事をしてても休みを過ごしていても、これは何も変わらん。なんかもっとこう、もっとないかね。別の動きというか、別のリズムが。