先週もだったけど今週末も朝まで飲み。去年もだったけどこの時期なぜか飲み会が多くなる。そして僕も基本的には誘いを断らないし基本的には途中で帰らずどこまでもずるずるといる。たぶん来週も再来週も何かしらある。自分がやろうと言い出したものもある。何とかの会、と名付けた食事する会が二つか三つあってその会がばたばたとあるし。でも去年も六月七月八月は飲み食いばっかりで楽しかったから良かったんだけど、今年はもう人もどっかへ行ったり移動したり自分もその場にいないしどうせあまり楽しくないだろうと思っていたら、意外と色々な方面からやろうやろうという声が上がってきて、それにも基本的には断らないでいて結果的には毎週末ばたばたする事になってきてそれはそれでよかった。酒飲んできゃーきゃー騒いでるのはまあやっぱりそこそこ楽しい。誰かが喋ったことや自分が喋ったことを、あとで思い出してもじつに楽しい。自分が喋ったことを思い出すのは自分が昔書いたことを読むのと同じように面白いし、その記憶をもとにまたここに色々適当なことを書いたりするのもそこそこ面白い。


で、今日も朝になって家に帰ってきて昼前まで少し寝て、起きてからも今日は一日中うつらうつら。ダラダラと録画しといたテレビなど見る。誕生日プレゼントと称して妹と母から吟醸酒を合計四本も送ってきて、嬉しいけどメッセージカードとか贈り物的リボン的なものもなくただ汚い酒屋の段ボールに入っててなんだか実も蓋もない剥き出しな感じにやや笑う。でも夕方からまた飲む。一本目はすごい上品な味でもうずいぶん飲んじゃったが口当たりよく酔いはさほどでもない。でもちょっと食べすぎた。すべらない話など、最後まで見てしまったが個人的にはやっぱり木村祐一という人の喋りの「文体」が一番好きかも。昔見た「車屋の菊池」面白かった。あの話死ぬほど好き。はじめて見たとき、あの流れのどこから「おかしくなってくるのか?」を知りたくて録画して三回くらい見直したけど、話術的には、何の難しい事もしていないということにあらためて驚いた。というか、それよりも何しろ、最初の滑り出しの感じで好きか嫌いかが決まる。最初の三十秒ですごい良いと思えるかどうか。左右をきょろきょろ見ながら朴訥として話すあの感じはすごい。「車屋の菊池」の後半一挙に、登場人物間の関係が歪み、ズレを含み、そのまま人と人との、話をするとか怒るとか説教するとか謝るとか、そういう感じすべてが上滑りし始めて、ボタンの掛け違いがそのまま何かを出来上がらせてしまって、そのまま何を言おうがいくらでも笑える情況が出現するのだが、その流れ云々というよりもそうなっていく過程それ自体がじつにありきたりの語りで語られるところがすごい。それが話者が木村祐一であるという事なのだ。今日もそういうノリは健在でオチが小粒だったからあまり目立たない印象だったが圧倒的に面白かった。あと小藪という人も面白い。ああやっぱこの人面白いんだなと思った。とにかく冒頭というか前半がよければすべて良しと感じた。そして今日は、円楽も出ていたのだが、落語的であるということはつまり絶対にすべらないという事なんだろうと思った。あれはそれほど強靭なフォーマットに固められた技術である。極端な事を言えば、いわゆる何の変哲もない出だしもオチもないような普通の話をしてもあれならちゃんと成り立つだろう。普通の話芸と落語では、そのくらいの違いがある。ぜんぜん比較にならない感じ。まあ僕なんかは保守的な人なので、毎週大喜利見てても普通に笑えるし好きなので、すべらない話よりも大喜利の方が笑えてしまう。僕の個人嗜好では。でも普通のお笑いの人たちの、全然洗練されてないけど独自な話の組み立て方はリスクも大きいがやはりすごくスリリングだ。小藪という人の話で、お葬式の場面で周りが爺さん婆さんばっかりの情況でそのまま待っていて、ああお葬式やなーと思いながら待ってたんですよ、という話し方をしていて、そういう語りとしては相当下手な感じがかえってすごく効果的で良いのだ。葬式に来てるんだから当たり前なのに、そこで、あぁお葬式やなーと思いながらって…すごい滑らかさのなさが、でもかえってそれがいい。これは木村祐一もまさにそういう感じ。