谷中


 午後を過ぎて、雨が上がったので妻と出かけることにした。

 時刻は四時過ぎで、我々としては、この時間からの外出は珍しいことだ。気温は思ったよりも高く快適である。外の景色が新鮮に映る。空が暗くなりかけているがまだ日中よりも数段階暗くなった程度で、その情況だと暗さに沈む寸前の景色に、外灯の光、店の看板、信号機など、光るものの明るさと色が異様に明瞭な強さとして目に飛び込んでくる。駅に着いて電車を待つ間も、屋根に並んでいる無数の蛍光灯が、プラットホーム全体を煌々と照らし出していて、その異様なまでの明るさが全体から浮き上がっていて、自分達の立つホームだけが現実から切り離されているかのようにさえ感じられる。

 上野に行って借りたCDを返して、その後で買い物しようと少し歩くが、結局何も買わずに、そのまま散歩しながら帰ることにする。上野からしのばず池の方へ歩いて、根津、千駄木、西日暮里までの道を歩いた。所謂谷中界隈である。途中かなり多くの店があり、散歩するには楽しい道だが、店がみんな、なんだか可愛い風や、大人の隠れ家的というのか、それ系のなんとか風みたいな感じとか、かっこいい系というか、なんとなくこじんまりとして、きれいに小さくまとまったお洒落な感じの店が多く、喫茶店とか雑貨系の店とかもよくあるけど、どうもあの手の、ああいう店というのは、入って小さな椅子に座って差し出されたメニューで注文して、みたいなのは、なんだか妙にままごとっぽいというか、型にはめられてるような窮屈さがあるというか、得体の知れない気恥ずかしさがあって若干苦手である。じつは成立してないものを、お互い目配せし合ってかろうじて成立させているだけみたいな、だからちょっと油断するとみんながらがらと崩れてしまうような脆さの上で、緊張して飲み食いしているような頼りなさというのか。。でも、そういうのが悪いとは全然思わない。むしろ、そうやって成り立たせる方が素晴らしいことだ。成立してないところで、皆の意識と慮りによって成立させるというのはうつくしいし素晴らしいことだ。本当は、はじめたらそうやって行くべきなのだ。それは本当にその通り。とはいえ、でも、いざその場にいると、しんどいことはしんどい。どうしてもそのあたり、怠惰な自分というのは否めないのである。付き合いきれないなあ、と、始まってすぐ思ってしまう。でも酒を飲めればそうでもないかもしれない。食べたり飲んだり、というのは、すごく直接快楽的だから、色々理屈をこねてても、結局おいしくて嬉しくて最高に楽しくなってしまうというのはあるわけで、それならそれで全然いい。そういうことであれば一番いいのだろう。でも最近は、なんでもいいやと思う事も多くなってきたが…。

 それで、どこにも寄らずに黙々と歩いていたら思いのほか早く西日暮里に着いた。ここまでは大した距離じゃないのだ。ちなみに、ここまでが楽だったからと言って、その調子でさらに続けて町屋まで歩こうとすると、西日暮里・町屋間の距離は、それまでの甘い予想を遥かに超える大変さなのだそうである。なので、西日暮里で切り上げて後は電車が正解とのこと。

 家に帰って、天ぷらをした。たしか先週もやった。最近、家でやる天ぷらのうまさに、完全にはまっている。天ぷらというと、油の温度やら衣の量やら、面倒くさくて難しい感じがするし、ちゃんとやればたしかに難しいのだろうが、そういうこと以前に、なんのことはなくて、別にちゃんとした揚げ方じゃなくても、単純に具材に衣をつけ、熱した油で揚げて、それを食えば、食い物として普通にうまい、という事実を、あらためて確認したというだけで、いい加減だろうがなんだろうが、油で揚げて食えば、これはもう、ほんとうにうまいのである。イカとかエビとか、たまねぎとかまいたけとか春菊とか、そういうものをスーパーで買ってきて、市販の天ぷら粉にくぐらせて、ほどよく熱した油に沈めるだけである。びたびたびたびたびた、ごろごろごろごろごろ、と激しく油が鳴って、衣が凝固して、塊となって揚がって、ほんの数十秒でできる。それを、油をきったら、立ったまま、その場でそのまま、塩か天つゆで食べるのである。僕と妻と二人並んで、ビールのグラスを片手に、油で揚げて、揚がったらその場で食い、飲むのである。セルフ天ぷら・スタンディング・バーである。風情なし、落ち着きなしで、行儀の悪いこと甚だしいが、これはほんとうにうまい。