水泳練習


 火曜、水曜と泳いで、今日も泳いだのだが、なんとなく疲労感があって、少し泳いだらすぐに疲労度がいっぱいになった。もうけっこう泳いだのかと思って時計を見ると、始めてからまだ10分しか経ってなくて、ちょっと信じられないという思いだった。その後も少し泳いだが、結局始めてから15分か20分くらいで本日は切り上げる。それでもたったそれだけの時間とは思えないくらい、泳いでいる間は長く感じた。

 4月から週2、3回のペースで泳いでいて、最初は泳ぐこと自体の気持ちよさや疲労感の気持ちよさだけで充分に楽しかったのだが、最近はそういう感覚にも慣れてしまって、でも数日連続で泳がないと、何となく気分的に落ち着かないような変な習慣化がされてしまった感じ。でも最近では単に運動不足解消とか、そういう理由では泳ぎたいとは思えなくなってしまって、今もこうしてこまめに通って泳いでる理由は、泳ぎ方をもっと上達・洗練させたいという気持ちが強い。

 前も書いたが、水泳は子供の頃からやっていたので、どの泳法もひと通りできるが、高校のときは平泳ぎで、クロールはフォームがあまりよくないというのは自覚があった。問題としては要するに腕とキックがちゃんと同期してない、ということになる。

 4ストローク、6ストロークのうち、この3ヶ月で4ストロークは何とか普通に出来るようになった。それができるというのはつまり、4ストロークなりの、水の掴み方を感じ取れるようになったということだ。そのフォームが感じさせてくれる水の抵抗というものがあり、それを繰り返すことで身体が前に進んでいく、その感触から、自分のスピードを体感的に知るということになる。そこに快感があれば、人はさらに泳ぎを練習することになる。タイムを短縮するための反復練習とは、この身体が感じる快感とタイムとの関係を何度も確認することである。

 自分なりにフォームが形成されてきて、はっきりと水の抵抗を感じ取り、身体が前に進んでいく快感も感じているのに、タイムの向上が見込めないとき、人は悩むことになる。自分の感覚が自分だけのものでしかなく、その枠の外側に広がっていかないというイメージの憂鬱さ。

 ちなみに、プールに熱心に通ってる人は大体、男性が多く、それで皆、大抵、たいへん素晴らしい身体をしている。まあフィットネスクラブに熱心に通うような男性は、大体、みんなそんな感じである。まったく、モティーフに見立てて木炭デッサンでもしたくなるような、ほれぼれするような立派な肉体である。そして、彼らの発散している、無防備なゆるい自己愛的なおっとりとしたムードというのがある。こういう感じは高校のときを思い出す。たまに大学生同士が、友達同士で、騒ぎながらロッカールームに居るのは、あれは騒がしくてバカとしか思えない感じだが。そういう肉体の、しっかりとした泳ぎはスピードも速く、同じコースで泳いでいるとどうしても煽られ気味になって、それはそれで、その分こちらも頑張るのでむしろ良いのだが、でもこっちもかなりフォーム改善された筈なのに、なぜこれだけ歴然とスピード差があるのか、何なる体格や筋力の差だけではない、技術的な改善の余地がまだまだあるのだろうか、あるいはこれ以上やっても、もう僕のスペック的にはここいらが限界か、などと考えて、いつか、もうこれ以上は上達しないと思ったら、水泳も、もう行かなくなるか。で、また忘れた頃に、ああまた泳ぎたい、泳ぐのって気持ちいいなあと思い出して、性懲りも無くまた泳ぎはじめるとか。何の発展もない、ひたすら繰り返しか。

 それにしても、若い男の会話のバカらしさというものがあるものだ。若い男同士で、女のウエストとかのサイズの話をしている。それは、そういう女がいいとか、女とやりたいとか、そういう話ではなく、単に数字の話なのである。ああどうして、若い男はこんなにバカなのか、若い男がほんとうに空きなのは、女でもなければ金でもなければ美味しいものでもなくて、単に数字が好きなだけなんじゃないかと思って、ああ、バカだなあと思ってうんざりした。

 それでも、帰りの電車で、座席に座って眠りこけていた男子高校生が、駅に着いて、はっとして目覚めて、寝ぼけているけど真剣な顔で、左右をきょろきょろと見回して、かなり必死に、今ここがどこかを知ろうとしている。そういう姿を見ていると、ははは、やっぱりいいものだなあ、かわいいものかもしれないなあ、とも思う。