月曜日に、一人で上野でのんでいたのはおぼえているが、二軒目にいったことはまったくおぼえてなかった。当日、家に帰ってきた自分が、二軒目の話をしていたらしく、そのことで発覚。でも別にいいのでは?


ほんとうに、のんだ当日のことを、覚えていないのが当たり前になってきて、それはやばいと思っている。


今日はまた桜木町、そしてぐっと離れて北千住。また後日続きの約束をする。


文章の場合、「この私」とか、「クオリア」を説明するのは、常に難しい。文章が、そういうものを指し示すことができるようには作られていないからだ。むしろ、「この私」は決して文章にあらわれない私、とでも言った方がいいかもしれない。


お金のない世の中がいいよねえ、などと、酔った席で口にしてみると、まず、そうだねえ、だったらまず、ブツブツ交換かもねえ、といいう話になる。あるいは、山に住む人と海に住む人がいたら、視線に交通が発生して、どうしても交換が起こって、お金もできてしまうと、すぐに言う人もいる。たしかにそうだよねえ、とか言いながら、そもそもなんでその話題を振ったのか、あまりよくおぼえてない。自給自足ってことですよねえ、みたいな話になると、いや、そうじゃなくて、もっと、お金もなくて交換もなくて、もっとぼやっとした感じで、ねえ…みたい話になり、いや、でもみんな働きすぎですよね、という話になって、だよね、もっと休んで、なんか適当にやるのがいいよね、みたいな話になってそのあとはまたひとしきり他人のはなし。