日比谷でウェス・アンダーソングランド・ブダペスト・ホテル 」を観る。


ウェス・アンダーソンではじめて観たのが、何年か前にたまたまDVDで借りた「ダージリン急行」で、これがすごく面白くて、それ以前の作品もそれ以降に公開された作品もそれなりに観て来て、そのたびに面白がって喜んできた。それはいわば、きわめて美的レベルの高い、センスにおいて人並み外れている、ほんの一瞬だけで人をとりこにさせるような魅力をもつ作品群であり、細かい理屈は抜きにただそれを享楽していれば全然OKなのだから、観終わって映画館を出たら、そのままヘラヘラと笑いながら、あそこが面白かったとか、あのやり取りが最高だったとか言いあいながら帰路につくというだけで問題なく幸せですということだったのだけれど、しかし、個人的には正直「ファンタスティック Mr.FOX 」「ムーンライズ・キングダム 」については、どちらも初見後何ヶ月かしてレンタルのDVDを借りてきて二回目を観た時点で「三回は観なくてもいいかな」と思ったのも事実であった。それらの、きわめて精密周到繊細につくりこまれた作品世界をもう一度味わいたいから、二回目を観るのは当然ではあるけど、でもこの、近年の二作品については、僕は二回目観た印象としてどうしても少し弱く感じられ、もちろんそれは観ている僕の許容量的貧困というか情報受入スペック不足が原因でもあるだろうが、しかしその一方でこれはつまり、きわめて美的レベルの高い、センスにおいて人並み外れているような類の作品にさえも、どうしても人は慣れてしまう、たとえばとてつもない美女に、一年に一度会うことができるみたいな、そんな幸運を手中にしていたとしても、それを何年もくりかえして、やがて恒例的な行事に感じられるようになれば、やはり最初の驚きやときめきは減衰していかざるを得ないということに近いのかもしれない、などと思っていた。


ということで今回の「グランド・ブダペスト・ホテル 」も、いつもどおりの期待はしていたものの正直想定以上ではないだろうとたかをくくってもいて、それで、結果的には、まあ、いつもどおりじゃん、とも思ったのだが、しかし今のところ僕はウェス・アンダーソン作品のなかで「ダージリン急行」の次に、これが好きかもしれない。いや、「ダージリン急行」もしばらく観てないので、もしかしたら「グランド・ブダペスト・ホテル 」は自分的には、ウェス・アンダーソンの最高傑作の可能性もある。(まあ、ウェス・アンダーソン全作品を観ている訳ではないが…。とくに90年代を観てない。)・・・しかし・・・まさかウェス・アンダーソン作品で「感動」するとは思わなかった。


以後、ネタバレしながら書くが、やはり二十世紀前半ヨーロッパの歴史を大きく物語に取り込んだことで、ウェス・アンダーソン的世界の作り物としての質感にきわめて深みのある奥行きが生じたことが大きいと思う。今世紀のヨーロッパの歴史とは、すなわち戦争の歴史ということであり、侵略、破壊、流浪、消失の時代ということであり、人間の主体というものがこれほど軽視されて踏みにじられたことはいまだかつてなかった、ということに対する記録の意志、その認識がつくったもの、である。


その結果、今まで繰り返し描かれてきた家族・親子問題的テーマが本作ではぐっと後退したかのようだが、しかしそれは後退というよりも圧縮に近い。物語前半で、主人公のコンシェルジュ、グスタヴ・Hとその部下のロビーボーイであるゼロは、汽車での移動中に軍の兵隊から身元検査を受け、身元不確かなゼロが連行されそうになるときに、グスタヴ・Hはいきなり「俺のロビーボーイに手を出したら承知しないぞ!」と叫ぶ。ここで二人の絆みたいなものはしっかりと描写されるのだが、ここには従来の親子的な関係性に加えて、二人のうちの片方をいきなり連行するような行為に対して、この物語の主人公は真正面から抵抗するのだということを示しもする。その後の展開は、表面的には強欲な悪役キャラたちとの攻防、みたいなかたちにはなっているけどそれだけではない。


たとえば、急に乗っていた電車が停められて、他所の国の軍人がいきなりずかずか入り込んできて、身元検査が始まって、身分証明書の提示を求められて、それをしげしげと眺められているあいだの、強烈な不安と緊張を経て、やがて相手が「こいつを連行しろ」と発したときの絶望感、憤り。・・・たぶんこういうシーンを小説や映画は何度も何度もくりかえしてきた。このようなシーンそれ自体が、きわめて紋切り型で型にはまったものだと言えるのだが、しかし同時に、このようなことはかつて実際に、ほんとうに行われたことで、その不安感、絶望感、恐怖は、かつてたくさんの人が実体験したことである。いま、この映画で、これを観る事になるとは・・・という、この二重になった記憶の感じが、作品全体に強い緊張感をもたらしていて、実際、この映画はいつものウェス・アンダーソン的に、どこまでも荒唐無稽に、圧倒的なスピードで進んでいくのだが、それでもこれは少なくとも、ハイセンスな意匠が高速回転してるだけのようなものではなくて、何かもうちょっと重たいものを引きずっているように思われる。


実際、ここで描かれたことというのは、二十世紀ヨーロッパの歴史をテーマにして今まで小説や映画が描いてきた手法の、完全な繰り返しである。それはつまり、人類が何世紀にもわたって築き上げてきたかつての文化や栄光が、新たな時代における侵略、暴力、殺戮によって脆くも滅びていく過程で、それでも個々のシーンにおいては、人間として尊厳に基づくいくつもの抵抗がありえたという事実の、さまざまな表現ともいえる。


この映画では「圧倒的暴力に個人が抵抗するための手段・方法」がいくつも示される。それも、じつにヨーロッパ的かつ映画的なものだ。つまり軍人の上官の両親がホテルの常客だったとか、いつ如何なるときでも最上の店の最上の席を抑えることのできるような同業者同士のコミュニケーションネットワークであるとか、美味い酒や料理を知っていることであるとか、あるいは脱獄とか、懺悔室での密会とか、スキーとソリの追いかけっことか、そういう類のことである。このような話自体も、過去にさんざん表現されてきたことだ。しかし今回、僕はこの映画をみて、ウェス・アンダーソン的世界がこれをやったことに深い感銘を受けた。軍人による身元検査のシーンは前半と後半の二回出てくるのだが、二回目で主人公グスタヴ・Hは人生を終えるし、ゼロの奥さんも当時のインフルエンザか何かで短い生涯を終える。この物語は、残された莫大な遺産を引き継いでホテルの支配人となったゼロが、時代は60年代になって、たまたま閑散期のホテルに滞在していた作家に過去の話を語るというかたちになっていて、しかもその作家も今の時制ではすでに亡くなっている。こうして大きな時間のウネリの中で、あらゆることが彼方へ洗い流されていくようなつくりになっている。…しかし終盤はけっこう感極まってウルウルしていて、あまりちゃんと観れてないので、これも近いうちに再見である。