一年ぶりに、小石川植物園に行く。でもなぜ小石川植物園に行くのか?妻が行こうというからだけれど、でも、いや、それだけではなはず。もう何回も行ってる。また今年も、この季節だし、それなら行こうかと思うのだが、何をしに行くのかは、よくわからないのだが、それもいつものことだ。とにかく行けば、行ってからそこをうろうろとするのだ。それに、行く途中、電車の中で本を読むのだ。そのことを、意外と意識している。本を読む目的で外出していて、外出先の場所や催しが何なのか、現地まで行ってあらためて思い出したりすることもある。しかしそういうときに、植物園は、ことに小石川植物園は良いのだ。さすがに、年一度か二度は来るだけの事はある。そもそも、植物園の手前にある播磨坂がなかなか良いのだが、今日は冬の入口にある、ふと気の抜けたような、風もなく穏やかな、晴れ間の日の光が音もなくただ降り注いでいるだけの、まったく無意味に何でもない微温的な時間のなかを歩いているだけで、まったくこういう休日を過ごしていると、自分がほんとうに虐げられた者たちの犠牲の上でのうのうと生きているのをぼやっと悪い予感のように感じながら、ぎっしりとした大気を壊しながら歩き進むだけだ。それは下らないことで、今こうしているさなかにも、昨日のやり取りを請けて今日も引き続き仕事をしているだろうという連中がいるということを想像しているからだが、それはそれで、僕はこうして冬の入口の大気のなかにいるのは、それはそれで、あれはあれなのか、そう思って、それがこうして僕を含む何もかもを支えているのだと思って、その場所で努力せよと言い捨てて、僕は、今日、小石川植物園の、小石川植物園の、入口を抜けて、上り坂を上がって、この木々らのありさまを。そしてようやく植物園に来てはじめて、あたりを見回して、ゆっくりと歩いて、スズカケノキの、目の前にそれが立っているのを見たら、去年も見たことを思い出して、それにしても、と思って、いつまでもぼんやりと鑑賞しているしかないような、とにかくこの木は、言葉を無くした状態でぼーっと見ていることしかできず、その大きさと形状、肌合いを、現実のものとは思えない何か、いや、こうして現実に在る以上、それが現実なのだが、だとしたらこの場所が、いつもの空間ではないと考えたほうが良いのかもしれず、いずれにせよここでかりに写真を撮っても、おそらくそれはは何の役にも立たず、目の前にスズカケノキがただ在るだけで、たぶんこれは、むしろ思い切って、木というよりも、鯨とかその類の、巨大な海の生物と思った方がいい。またはここが、海底と思っても良いかもしれない。そのくらい思わないと立ち去れない。とにかく、この木は生き物で、とくに上の方へ行けば、もはや人間の想像をはるかに越える領域の出来事を、その場にもたらしている。それは人間にはまったく手の届かない領域で、木が昔から自分の都合で、勝手にそうしていることらしかった。日本に、明治時代に、はじめてやってきたスズカケノキであるが、彼自身にとっては、そんなことは、大して問題にするほどの価値も無いように思われた。