少女時代


菊地成孔の、何年も前に放送されたラジオを聴いたりして、2011年に、少女時代の曲をテディ・ライリーがプロデュースしていたことを知る。少女時代は昔少しだけ聴いたときも、そのラジオで聴いたときも、全くいいと思わなかったのだが、テディ・ライリーは、僕は相当昔から好きだった。と、思っていた。でも91年のプロデュース作マイケル・ジャクソン「Dangerous」は、全然いいと思わなかったのだが。僕にとってのテディ・ライリーとはブラック・ストリートに尽きている。というか、要するにブラック・ストリートが好きなだけなのだ。


菊地成孔のラジオを聴いていて、そうか菊地成孔は、こういう音楽が好きなんだな、ということがよくわかったし、なるほどこれこそが、テディ・ライリーなのだな、ということもよくわかった。したがって、僕が好きだと思っていたテディ・ライリーとは、どうも今ここで聴いたテディ・ライリーとは違うものらしい、ということもわかった。たとえばラジオでは、ブラック・ストリートの99年のアルバムFinallyから「Girlfriend/Boyfriend」が掛かったのだが、当時僕はこの曲を聴いて、なんというカッコいい、キメキメに決まった完成度の高い曲だろうかと驚いたのだが、でもこれでは僕が好きだった感触は無くなってしまったな、と感じたものだが。…でも、なるほどテディ・ライリーといえばまさにこういう楽曲構成こそが真骨頂なのだと。僕の好んで聴いていた箇所が、単に甘くゴージャスでせつないメロウネスに覆われていただけで、このリズムの直進性こそが本来なのかもしれなかったのかと、今更のように気付いた。


もちろんNJSとか、テディ・ライリーの功績を一般レベルではわかった上で、僕もそれを好きだと思っていたのだが、それでも好きな気持ちの核の部分では、そういう形式への思いとはまた別の何かがあったということなので、それこそ僕なんかはここ最近の、連日聴いているShineeのような音楽にこそ、激しくブラック・ストリート的なものを喚起させられているような始末で、湧き上がるその愉楽ゆえに、いつまでも聴き続けているのだが、それはたぶん、一人のプロデューサーの作り上げたある形式のことではなくて、もっとごちゃっとした、あの当時の、あの全体的な、なんとも知れないあの感じ、なのだな、、と思った。


でもせっかくだから「少女時代」も聴いてみるか、と。…しかし流行に遅れてるとか、そういうレベルを遥かに越えた、僕ももはや、ものすごい周回遅れな情況になっているようだが、こんなことで本当にいいのか。