めぞん一刻読了

めぞん一刻」最後まで読み終わった。前半はちょっと退屈?…と思っていたけど結局、後半は息をのむような展開。いや…お約束だし、王道だし、すでによくわかっているのに、それでも冷静に読むことは難しい。神掛かってる。なぜこんな作品を作ることができたのかという驚きしかない。

五代裕作はモテなくて冴えなくてダメなやつであり、それを反転させたかのようにモテて金持ちでちゃんとした男性の三鷹がいる。恋愛の三角関係において誰が見ても勝敗は明らかなように思われるのだが、実際はそうではない、というか…そういう話だと思って読んでいるけど、じつはそういう関係じゃなかったし、そういう話じゃなかった、というのがすばらしい。「めぞん一刻」は高嶺の花の美女をめぐる二人の男の戦い…という話ではなくて、やたらとモテるけど自信不足で優柔不断になりがちな男性を、ひとりの女性が決然と自分の方へふりむかせるみたいな話なのだ。なのでとくに後半は、どちらかと言うと音無響子という女性にぐっと感情移入させる仕組みになっている。青年漫画であるゆえ導入は凡庸(っぽく描かれた)裕作が主人公でなければならなかったが、物語が進むにつれて次第に作者自身の思いの先が響子という人物に強く流れていったのだろうか。なにしろ後半からラストへ至る展開には圧倒される。

五代と三鷹はほとんど一人の男性の表と裏みたいな描かれ方で、片や優柔不断で自ら決然と事を進めることはありえないようなパーソナリティと、片や行動的でやや強引なほど自らのペースで相手を落とそうとするパーソナリティに書き分けられていて、しかし音無響子にとっては、どちら側にも応答ができない。問題は相手にあるのではなく自分自身にあるからだ。また五代というキャラクターがダメなやつでありながらやたらと女性からモテる、つまり実際はけっこういいヤツだしわりとカッコいいのかもしれないけど、マンガ的表現ゆえあまりそうは感じさせず、読者にそう思わせないというところが非常に巧妙である。

実際どのエピソードもかなり無理やりなのだ。三鷹と明日菜の思い違いによる婚約までの流れ、あんなことありえないでしょ…とは思うし、五代を好きだったこずえも最後に五代と別れさせられるために再登場したようなもので可哀そうなくらいだが、そのこずえの「騙し打ち」のキスを受けた五代と、それを見てしまった響子とがまたひとしきり揉めた後で、五代が騙されてキスされたその方法を響子に、手の中を覗き込んで下さい、そのまま目をつぶって下さい、で、やられちゃったんだと伝える、この場面も本作にいくつもある名高い場面の一つだろうし、ああここでこのエピソードか…と僕も思い出せたけれども、しかし今更ながらこのシーンのすばらしさは、筆舌につくしがたいと思った。後ろを向かせるなんて…、こんな一連の流れをよくぞ考えついたものだ、天才じゃないかと思う。それで騙された男性は再び騙されるのだが、それよりも音無響子という女性にこのあたりからスイッチが入った感じがあり、って、それがまた良くて、

しかし音無響子は五代と急速に接近し、キスを交わし、一夜を共にするのだが、その流れは非常に規範的で物事の順序としてそうなっているという感じでもある。それより読んでいてより衝撃を感じるのは「叩く」シーンの方にあるかもしれない。音無響子が五代を叩いたことなど、これまで何十回もあるのに、物語の終盤に登場する殴打はそれまでと重みが全然違うというか、大事な試験の前夜とか、その後のプロポーズにまつわる誤解の場面における平手打ちには、ただ事ではない緊迫感がある。それは以前のような殴られたショックではなくて、もはや殴る側のショックなのだ。もう終盤にきて些細なミスも許されない状況で、この女性の後には引けない必死さが突出してくる。もちろん朱美の「ろくに手も握らせない男に なくわ わめくわ。」という言葉に響子は影響を受け、それがきっかけで五代とのラブホテル宿泊が成立するのだが、だからこそ殴打の痛みから一転して、はじめて朝まで過ごす展開の甘やかさが強調され、グダグダ逡巡した末のプロポーズの場面で響子が返す言葉(一日でいいから私より長生きして)や、前夫の墓前での言葉(あなたに出会えて本当に良かった)にも、表面のキレイさだけではない深い余韻がともなって、一人の女性が自ら思いを決めた瞬間を生々しく垣間見たようになって感動させられるのだろう。

しかし最後の花嫁姿とか、当時はやはりまだ、旧来の時代だったなあとは思う。出会って結婚して家庭に入って親や親戚と交流して出産して…という流れ、そのシステムで良いのだ(貧乏でも何とかなる、そんなことは重要ではない)、という制度的「安定感」が、まだまだ盤石に存在しているとも感じた。

ところでこずえは、五代が結局誰を好きだったのかを、最後まで知らないのだ。彼女だけが物語の核心部分を知らず、それゆえにこの物語の磁場から自由だ。もちろん既に結婚して夫の赴任先で新たな生活をはじめて既に半年が過ぎているとはいえ。最後の時点で大学生の八神さんはちょっと下の世代(とはいえ五代と四~五歳の差。教育実習の先生と生徒の年齢差って、そんなものなのか。と、かつて教育実習経験のある自分としては今更ながらやや驚く。)として、三鷹が31歳、響子が27歳、五代が23歳くらい?そしてこずえは浪人した五代より一つ下だと思われるが、こずえだけに新たな冒険の機会が与えられているかのように感じるのは、自分の勝手な思い込みだろうか。