この世界の(さらにいくつもの)片隅に

MOVIX亀有で「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」を観る。冒頭の、すずが嫁ぐ日、北條家を目指して歩く浦野家の人々を坂の頂上から見下ろしている小林の伯母さん。嫁ぎ先の人ではなくて、親戚の、この度の仲人を務めて下さる、その伯母さんの、ぽつんとそこにいるたたずまい。家というもの、制度というもののかたち。…ああ、本当に、こうだったんだろうなと、戦前~戦中、戦後しばらくの間まで、どの家もきっと、こうだったんだろうな…という、自分には実感のないはずの郷愁をつよく感じた。

りんさんと周作との関係を知らしめる場面がややぎこちないながらも物語内に挿入され、それで登場人物としてのりんさんの存在感が増して、同時に水原の存在感も同じだけ引き上げられて、それによって、すずと周作との関係に単なる相互の問題では済まない四人関係的な奥行きが出たとは言えるのかもしれない。相手への疑いや嫉妬のようなごく卑近な感情とも不可分ではなく、物語の終盤までそれはかすかに響くというか、そこまで描かなかった前バージョンのままでも良かったとも言えるけど、今回のバージョンも観ることができて良かったと、とりあえずは言えるだろう。

個人的な秘密を秘密のままにして、その私が死んでしまったら、それはもう誰にもわからない、それっきりの事でしかない。その思い、その考えが、一度でもこの世に存在したことなのかどうか、この私が死んだあとには、いっさいわからなくなる。でもそれはそれで、贅沢なことじゃない?(それはそれで良くない?)と、りんさんは涼し気な顔で、すずに語り掛ける。しかしすずはそれを秘密にはしなかった。ごめんね、りんさん。でも、それもそれで、贅沢なことだと思わない?と、異なる意見を贈り物のように、すずはりんさんという友達に向けて応答する。

それにしても、2016年公開版はかつて映画館で観て、その後DVDになったとき再見したけど、今日の劇場では、ありありと初見時を思い出した。この映画はできるだけ映画館で観るか、やむなく自宅鑑賞だとしてもなるべく爆音で可能な限りの最大音量で観るべき作品であるとの思いをあらたにした。この映画は、なにしろ音だ。クラブサウンドを聴くくらいの心構えが必要だ。人を死に至らしめる際の音とは、まさにこれだ。中盤からの空襲における爆撃音は、観る者のこころの中を根こそぎさらい、そしてただ茫然とさせるようなもので、それはあたかも自分の傍らでふいに起こった死を、なすすべもなく見届けたかのような錯覚を起こさせるに十分なほどの衝撃である。可聴域全部に爆音が鳴り響き、遠くの山に濛々と火柱と煙幕が上がり、目の前の地面が生き物のように掘り返され、それが自分に命中しなかったことが偶然にすぎないことを明確に意識しながら頭を上げつつ、ああ死ぬのはなんて大変なことかと、こんな思いをしても、まだ死は依然として遠いのかと、さっきと今がまだ繋がっているのかと、あとどのくらい凄絶な思いをしなければ死のラインに手が触れないとかと、ほとんど途方に暮れる思いがする。

この映画はおおむね、死んでしまうよりもよほど辛いことが描かれている話で、それゆえ観ている自分はこの劇中の時間内において、いつ死にたいのかを始終心のどこかで考えずにはおれない。みんな良かった良かったと言うけど「うちにはどこがどう良かったんかさっぱりわからん。」というすずの言葉の重さに、何度も打ちのめされる。「こうであって良かった」と思える余地のなさ、たぶんある時点で決定的に、この私の居場所がどこにもなかったという厳粛な事実。その意味や解釈をここで言葉で言い訳のように書くのは完全に無駄だ。たぶんそこに返すことのできる言葉は無い。だからこの映画を観るのはしんどいし、気のすすまないことだ。もうたくさん、よくわかってるつもり、との思いもあるし、今回も妻が観ようと言わなければ観なかっただろう。しかし、誰もが観るべき作品であると思う。