春の絵

今の季節にハクモクレン、あるいはコブシの花が、満開で咲いているのを見ると、ゴッホの作品を思い浮かべたくなる。もっともゴッホが描いた白い花はコブシではないが、種類がどうとかではなく、いまの季節に植物がほとんど調子づくような旺盛さをもって活動している様が、ほとんどそのままゴッホの絵を思わせる。

緊張を強いられ、心拍数が高まり、貧血を引き起こしそうな不安をおぼえつつ、しかし目をそらすわけにはいかないような、ある具体的な過程の一部始終を、理性とはべつに作動する原初的な欲望にかられて、最後まで凝視せずにはいられないような、そういうイメージをゴッホの作品はもつ。それは春の季節にだけ植物が感じさせる、ある種うとましいほどの過剰さや旺盛さに通じている。見るということと、見うしなうということは、ほとんど同じことで、それは泳げない人が四肢を必死に動かして、水面ぎりぎりのところで息継ぎをしているようなもので、呼吸器は次の空気をいつ確保できるか不安に苛まれながら必死に取り入れ口をあけようとしてもがく。その苦しみを、見ることの面白さにはき違えているのがゴッホを観ている誰かだ。

小林秀雄ゴッホの麦畑の絵の実物をはじめて観たとき「この色の生ま生ましさは、耐え難いものであった。これはもう、絵ではない。」と言って、おそらくたまらない思いで目をそむけたのだろうが、そういう心を自分は今でも持ち得ているのだろうか、季節も変化していくように、自分も年齢を重ねてじょじょに変わっていくものだろうと思った。