文京区白山のwalls tokyoで井上実展。この絵がある意味、小さな虫が広い画面上をでたらめに歩き回って、その足跡がそのまま絵になったようなものだったとして、、そのとき、描いた主体は小さな虫だということになるけど、虫は、そのような絵を描く意図はなかった。自分が歩き回れば、その足跡が画面に残るということをかろうじて認識していた(そういう認識が可能な虫だった)としても、その結果がどうなるのかなど、想像もしていない。
但しそれは、過去に観てきた作品がどれも、比較的大きな画面だから、そのように思えたのではないか、画面サイズが小さくなることで、そんな絵の印象は変わるのではないかと予想したが、そんなことはなかった。このスケール感消失の感じ、人間の意味や目的から隔絶した感じ、身体的=感覚的な非人間性というか、意味のぶつかり合ってる領域から一段階高いところに浮かんでいるような感触は、今回の展示作品でもやはりあいかわらずで、作品のたたえる印象が、画面サイズからは大して影響を受けないのだと思った。
観始めて、やがて面白さのピークが来て、それがじょじょに減衰していって、やがて観終わる、という絵の体験もあるだろうけど、面白い絵というのは、大抵の場合そういった流れは無くて、面白さにピークが無いというか、入ってから出るまでの流れ自体が無い。面白さは、その前段階や後段階の余韻などとは無関係で、脳内に再構成されるというよりも視覚的なアクシデントというか混線のような体験としてあらわれる。その面白さはピークだとしても、そのままループする。それを見るたびごとにピークが反復して訪れ、ちょうどテレビのお笑い映像で、ある瞬間を何度もくりかえし再生するみたいに、何度でもおどろいている。面白さが、時間の流れの中に回収・収束されないのが、面白い絵の面白さの特長だと思う。