水泳をしていて、昨夜はかなりいいペースに自分では感じられた。後半にきても身体の動きが疲労感に押しつぶされる手前で持ちこたえて、一定の力をキープしたまま泳ぎ続けていられた。これなら新記録が出るかもしれないと思った。単純に三十分間、泳ぐこと。それを週に可能なら二度かできれば三度、すでに四年近く続けているけどいまだに1450Mの壁を越えたことがない。でも今回は大きなチャンスの予感がした。そんな予感は過去に何度も感じてきてそのたび平凡な記録にがっくりし続けてきたし、体感と現実がそんな風にぴったり来ないものであることもわかってはいるので、もちろん過大な期待はしてないのだけど、あるいはひょっとしてと思いながら最後の数分を頑張るのは、今やただの徒労にしか感じられないことも多い水泳の習慣に、わずかに残されたかすかなよろこびでもある。果して、結果がどうだったのかというと、絶望的なことにAppleWatchの計測がONになっておらずノータイム。さっきまで泳いでいたと思っているならそれは幻想だ、現実のお前は泳いでなどいなかったのだと手首の画面から告げられる。これもたまにやるのだ。そして勝敗の結果から受けるのとはまた別の、これはこれでかなりダメージのでかい空しさにさいなまれることになる。いや、僕はほんとうに泳いだのだ、それこそが事実なんだから、それでいいじゃないか、と理屈では思っても、それを納得するのはむずかしい。だったらお前は、数値で記録したくて水泳してるのか?と問われたら、ああそうだ、そうに決まってるだろ、それの何が悪いのかと、いきり立って口走りそうになる。スポーツのニュースなどでたまに見かける、長いキャリアをつみ重ねてきた選手がついに初優勝したけど、レース後に規定違反が判明して失格になった…みたいな、その規定違反に選手自身の落ち度は何もなかったのだが、規則は規則だから、その優勝はまぼろしに終わった…みたいなシチュエーションを想像したりもする。