映画:フィッシュマンズ

Amazon Primeで手嶋悠貴「映画:フィッシュマンズ」(2021年)を観る。佐藤伸治の逝去からすでに二十年以上が経過し、各関係者らの言葉にもようやく「かつてのこと」の客観性というか、屈託や感情も含めて、もはや遠い昔の記憶であることを感じさせるニュアンスが出てきた、そんな時期だからこそ実現した作品内容だろうと思う。関係者の誰もがあのときのことを、衒いや逡巡なく、その人たちなりの率直さで語っている、ようやくそのように語ることが出来るようになった、そんな印象だ。

当時の日本の音楽シーンにおいて「メジャーデビュー」というのは、それほど大したことではなかった。いや、それは言い過ぎかもしれないし、プロデビューできるというのはすごいことに違いないのだけど、少なくともキャパ数百の会場を埋められるくらいの集客力があれば、おおむね当時はデビューできてしまえた。そこから先は実力次第だろうけど、デビューというだけならそのくらいのハードルだったし、フィッシュマンズもそのようにしてデビューした。

フィッシュマンズは結局、最初から最後まで売れなかった。はっきり言って「空中キャンプ」や「宇宙 日本 世田谷」でさえ、そう見なすよりほかないような成果でしかなかった。それは厳粛たる事実だった。「売れない」というのは、フィッシュマンズを最初から最後まで徹底的に苦しめた大きな要因だったというのが、この映画を観ると非常によくわかる。

汚くて狭い落書きだらけのライブハウスの楽屋で、しょうもないことをグシャグシャと喋ってるバンドやってる若い連中、フィッシュマンズとはずっとそういう連中であって、最初から最後まで、ほぼそうだった。プロになって、移籍もして、世田谷の立派なスタジオも借りることができて、好きなようにやれたときもあったけど、結局は、ずっとただのチンピラだった。金にもならないことをやって、会社から見れば、ずっと不良債権みたいなものだった。

柏原譲脱退が決まったあとの98年「男達の別れ」ツアーは、ツアー中、ほぼ誰もがお互いに会話いっさい無し状態な、想像するのも難しいような、ものすごい状態だったらしい。なにしろ佐藤伸治の集中というか、没入度合いが、尋常じゃなくやばかったらしい。おそらくその時点で、もはや精神状態もややキていたのだろうし、それは「男達の別れ」の映像を観れば、瞬時に察することができるくらいのものだ。

佐藤伸治は当時マネージャーに「どのくらい売れたら会社に迷惑かけないですむのかな?」と、冗談交じりに言っていたらしい。そのくらい、売れないバンドというのは、肩身の狭い思いをするものなのだ。ちなみにフィッシュマンズがデビュー後「ここで売れるだろう!」と強い期待を込めていたのが、2nd収録で1992年リリースのシングル曲「100ミリちょっとの」だったそうな。これは絶対に行くでしょ、と思ってたら、全然ダメで、でもそうだったから、その後の、日本のロックシーンに名を刻むような傑作群があらわれたのだとも言えるし、しかしもしそうじゃなかったら、佐藤伸治はもしかするとまだこの世にいたのかもしれない。それは何とでも言える。そんなのはもはや、わからないことだが。

たぶん「宇宙 日本 世田谷」で、すでにフィッシュマンズは実質的に解散していたのだと思う。「宇宙 日本 世田谷」は、佐藤伸治とZAKの二人による作品なのだ。そのことを柏原譲茂木欣一はよくわかっている。しかし彼らは決して佐藤伸治を悪く言わないし、今後もそうなのだろう。

佐藤伸治のように徹底的に自分の能力を駆使して、自分を追い込んで突き詰めて、その結果深く絶望し、結果的に自分自身を崩壊させてしまうような、そういう生き方と死に方の出来る人間というのは、今の世の中、ほぼいなくなったと思う。たぶんこの人が最後ではないかとも思う。しかしそういう生き方が良いとはさすがに思わないというか、あまりにも「遊び」無さすぎで、そんなピーキーな操舵性で生きるということの古臭い快感に浸りすぎだろうとも思うのだが、それはそうじゃない人のやっかみでもあるのか知らんが。まあ、しかし三十三歳で死ぬというのが、99年の時点でそんなことで良いのかと。そこまで自分に、かかずらわなくてもいいじゃないかと、今頭の中に鳴ってる音楽だけが全てじゃないかもしれないじゃないかと。そんなことを言っても詮無いか。しかしあなたの、四十代以降の佐藤伸治の仕事を知ってみたかったと思わないか。

フィッシュマンズは、昔から「ものすごい突き詰め方の、瑕疵の無い純粋傑作!」みたいなイメージがあって、それがかえって、微妙な距離を取りたくさせる一要因でもあった。本作を観ても、ああやはりこのバンドはそうなんだな・・との思いは変わらずだ。彼らはきっと、自分らを若者だと思っていたし、若者の音楽だと思っていただろう。若者だという自覚は、今この瞬間の後を想像できない、想像する意志はないということだ。フィッシュマンズはそれに尽きてしまっていて、もちろん今でも聴けるのだけど、今となっては、今聴くものとしては聴けない。