しかし考えてみれば、旅行になど出掛けるまでもなく、日々がずっと仮宿暮らしのようなものだ。
そういう生活を、我々(自分と妻)は、続けてきた。
ほとんど何も積み重ねることなく、ただふらふらとした生き方をしてきたのは間違いない。
まったく二人だけで、勝手にやっているのだ。それを是としながらやっている。
しかし、こんな私たちでも、歴史に規定されていて、政治に規定されているのだ。
むしろ絶望的なまでにそうだ。無力きわまりないのだ。
ほんとうにずっと、いつまでも、旅の途中みたいなものだな。
入るはずのお墓だって、よくわかってない。きっと、生きていて死んだ、というだけだ。
でも、たぶんもう百年も前から、きっと誰もがそうであるはずだ。
難民。その過酷な「旅程」を想像してみろと。…それは確かにそうだ。
二十世紀がまさに、難民の世紀だった。それはジョナス・メカスの声を聞くまでもなく確かだ。
だからと言って、私たちも難民だ、とは言わない。それとこれとは、まったくわけが違う。
安易に感情移入せず、彼らの時間を想像しなければならない。
その上で、彼らと我々の立つ地面が、地続きであることを意識しながら、
つつましく、謙虚な気持ちを忘れないようにして、やっていきたいと思ってます。
たくさんの書物や映画や音楽が、私たちを楽しませてくれるし、考える余地やあらたな価値や目的を与えてくれるだろう。
私たちがそれを選んだのだから、それで良いはずだ。
でも、この時間の経過に耐えられない、埋め合わせることの出来ぬ寂しさを持ちこたえられない人も、いることだろう。
その人たちをなぐさめる術はない。その様子を見やりながら、かたわらを通り過ぎるよりほかない。
幸福にね、健闘を祈ります、できればまたいつか一緒に、としか言えない。