西武国分寺線

高校のときは、西武国分寺線沿線を毎日行ったり来たりしていた。東村山、小川、鷹の台、恋ヶ窪、国分寺の5駅だ。この短い区間のあいだに高校や大学がいくつあったのかわからないし、しかもあの時代、今と比べたら桁違いに子供の数も多かっただろうけど、それに電車に乗ってる時間帯のせいもあるけど、下校する時刻になると、駅のホームや車両内に多くの制服が入り乱れて、学生男女らが文字通りひしめき合っていた。

鷹の台には武蔵美があるけど、武蔵美生がそのあたりをうろついているのかどうかは、高校生の目に上手く判別できなかった。国分寺にあった美術予備校の講師はほとんどが武蔵美の学生か卒業者だったと思うが、当時の自分の目には、あの人たちもたぶん自分らの両親よりは若いがふつうの大人だった。もちろん自分より少し年上の女性であれば、それとはまた別な意味をもつ存在に見えたわけだが…。

そしてやはり、その沿線のなかでは国分寺が、古い名曲喫茶とかロック喫茶とか中古レコード屋とか古着屋とか、そういった店の立ち並んだ町の空気によって、ある種の「文化的」な匂いをたたえていたとは思う。それは魅力的な匂いではあったが、いま思えば国分寺だけでなくて西武国分寺線沿線全体の雰囲気が、田舎のもっさりした感じをベースにして、そこに集う学生や若者や生活者たちによって、各駅にそれぞれの特長を分け与えながら、独特の空気感をつくり出していたのだろうとも思う。小川も鷹の台も恋ヶ窪も、田畑と野火止用水を囲む緑深い木々と住宅地で構成された典型的な郊外の雰囲気だったけど、それはそれで停滞した退屈さではなく何か見えない動きを孕んでいる感じがあった。あれは単に、当時の自分が高校生だったから、自分の知覚がそのように見るものをよりよく見てしまっていたのだろうか、それとも単なる美化された過去の思い出効果の上乗せに過ぎないのだろうか。

自分は大学生になって上野に通いはじめて、上野という場所が当初の期待ほどには魅力的ではないように思ったのを今でもおぼえている。もちろん上野公園の敷地内はすばらしかったけど、その魅力はあらかじめ予想されたもので、実際それ以上ではなかった。むしろ自分にとっては西武国分寺線沿線が、あるいは国分寺が、よくわからない何かの思いを溶かし込みたい欲望の矛先として、なぜかしっくり来ていたのかもしれない。高校生でなくなり、あれをうしなってしまった、との思いをどこかに感じていたかもしれない。