Amazon Primeマイク・ミルズ「カモン カモン」(2021年)を観る。独身男性があるのっぴきならない理由で、子供(甥っ子)の慣れないお守り役をやる話なんて、これまで様々なジャンルで無数に作られてきただろうと思うが、この映画がそのようなありふれた風ではなく、どこか一味違う感じがする理由は何なのか。

ホアキン・フェニックスはラジオ関係の仕事をしているらしく、子供にインタビューをしてその録音物をまとめている。インタビュー内容としては、たとえばあなたは自身の未来についてどう思うか、大人についてどう思うか、親や兄弟、学校、社会は、世の中は、アメリカはどうなると思うか、もっと良くなると思うか、自分自身についてどう思うかなど、彼らの社会に対する意識や考え方などを単刀直入にヒアリングする。そんな質問に、子供たちはとてもきちんとした答えを返す。ちょっと出来過ぎでは…と思うくらいにマトモな言葉、どこへ出しても恥ずかしくないような考え方の、きちんとした言葉がたくさん返ってくる。

この映画では話の合間に、幾つかの書籍のタイトルと著者名が示され、一部が引用され朗読される。それは主人公であるホアキン・フェニックスがその箇所を読んだということを示すのだと思うが、ある引用文に、詳細は忘れたけどつまり以下のようなことが謳われていたように思う。

質問に答えるということ、問いを受けてそれに回答するということは、そのとき質問者も回答者もはじめからある枠組みにとらわれている。回答者は回答内容こそが私の考えだと信じているけど、それはたぶんそうではなくて、回答者は質問に導かれて、図らずもその回答を「言わされて」いる。それは質問者のせいでもなければ回答者のせいでもなくて、形式そのものがそれを言わせている。発言者は、発言形式の枠から自由ではなく、あたえられた形式によって、本来の言葉、本来のメッセージ、本来の欲望を見失う。

これはホアキン・フェニックスのインタビューという仕事そのものへの批判として響くものだろうし、そして質問者と回答者のような安定的関係を容易には作らせてはくれない九歳のウディ・ノーマンこそが、わかりやすい回答には回収されぬ、そののっぴきならぬ現実を具現化してもいるのだろうと思われる。

ただ本作はあるテーマやメッセージを声高に叫ぶような種類の映画ではなくて、彼らの行動ややり取りの一部始終をただ見守ることだけで出来ていて、だから上記のように書くことの意義はあまりない気がする。ホアキン・フェニックスは素晴らしかった。子役のウディ・ノーマンもただかわいい子供以上の何か、ある不穏さ、手の届かなさとしての存在をあらわしていた。その困難さを、母親はよく知っていて、ケース別の対応事例を自分なりに準備していて、可能なものは対応手順化されていて、そのメソッドをホアキン・フェニックスは毎度相談して確認する。子育てとか見守りとかではなくて、端的な指示あるいはサジェストを求めている。母親も叔父さんもここでは役割に甘んじることが出来ず、単独で手探りを続けるばかりの孤独な姿を浮き上がらせるばかりで、この映画は、それをたんに観るだけでいいのだと思う。きっと子を持つ親にとっては「子育てあるある」な場面がいっぱいだろうけど、たぶんそれだけでない、もっと掘り下げられた何かがあるのだと思う。

あと、音楽がすごく良かった。誰かの作ったプレイリストを探したい。