今から二十年ほど前の制作写真がたくさん出てきた。それらを見返していて、思わずため息が出た。
過去が今に告げてくる、がむしゃらさの持続、その熱量が、今になって見れば空しくてバカバカしく見えるかというとそんなことはなくて、むしろ今へ強く働きかけてきて、今を脅かしに掛かってきて、そのことにたじろぐ。
それらをなつかしく見返すことは今も出来ない。それどころか今の自分の欺瞞、曖昧なまま誤魔化してることを正確に突いてきて、それをどう責任取るつもりなのかと、厳しく言い立てられるかのようで、甚だ落ち着かない。
昔、こういう画家がいた。この人のやりたいことや、目指してることや、思惑や狙いは、こうして見ると、ことごとく外しているように感じられる。どれひとつとして上手く行ってないと言っても良い。ただこの連続性、この仕事が続いていたことの時間的な厚みがそこにはあって、まずそれをある種の重くて鈍い衝撃のようなものとして受け止めることになる。それは単に良いとか悪いとか言って済ませられるものではなくて、ある出来事の突然の再来という感じである。
それはまるで激しい水流の渦巻き、あるいは大小の塵芥が風に巻かれて飛び回る様、濃いのや薄いの、熱いのや冷たいの、密集と拡散、蠢きと静止、その一々が流れたり逆流したりして、あまり目的や目指す先もなくて、ただ終始のたうち回っているだけみたいな、途方に暮れるような際限の無さだ。それが途中で放擲された数々の紙片に積み重なって、目を見張るような層を成している。
この画家の絵は、お世辞にも良いとは言えない。良い仕事には思えない、くだらないと言っても良い。だが、くだらなさがむしろ、その作品に挑むこの画家に固有な不透明さであり、この人だけのこだわりで、なぜそれに固執するのかは黙秘したまま、頑なで、ものわかり悪く、無理やり図々しく押し通したい、そんな問題であることを示してもいて、そしてこのくだらなさの向こう側に、それら作品の可能性はあるだろうとも思った。これをずっと続けるだなんて、途方もないことだけど、これがさらに蓄積されることでしか、道は無かったのだろうと思った。もちろん続けて蓄積したところで、くだらないものはくだらない。それは当然なのだが、でもくだらない場所にさえ到達しないよりは、よほど何事かであったとも言える。
ただ、こんなことは、後付けでいくらでも言えることだ。いまだにおぼえているけど、この画家は以後少しずつ、あまり面白くない風に、作風が変わっていったのだ。自分の不透明さとか、自分の説明のつかなさに、おそらく耐えきれなかったのだろうと思われる。だから自ら、安易な方へ流れた、もっともらしい説明の元で安住できる場所へ、少しずつ姿勢をずらしていったのだと思う。
自分の作品を、つまらなく思い、他人から一笑に付されるような、箸にも棒にもかからぬ、取るに足りないものに感じることがある。その一方で、自分のなかに、どうも説明の付かないもの、納得の行かなさがある。まだ解消するわけには行かない問題が燻ってる感じがする。
それは続けても続けなくても、どちらでも良かったのだが、あの過去の時間、あの混沌としたものが後に残るのかと思うと、それはもはや、過去のあの画家は、あれ以後ももし続けたならば、自分とはすっかり別の人間として生きていくことだっただろう。
(つまりその後、意識の袂を分かって別人となったかつての「私」と久々に再会した、ということか。)
(同時に、かつての父に出会ったということでもあるのか。しかも再会ではなく「はじめて出会った」ということか。)