幸田文は1947年に亡くなった父露伴について書いた文章がデビューとなり、四十代で文筆業をはじめた人である。今読んでいる「ちぎれ雲」が、まさにその初期時代のエッセイを集めたものだが、これを読んでいると、デビューが遅いとかそんなことはいっさい関係なく、幸田文ははじめから幸田文だった、すでに完成された作家にほかならなかったのだということがまざまざとわかる。たぶん技が増えるとか、上達するとか、そんな要素もはじめからいっさいない。はじめからおわりまで、完全に一貫している。デビューから晩年まで、まったく同じ絵を描き続けているとも言える。生まれてはじめてスケート靴を履いて氷上に出たら、ふつうに滑って三回転ジャンプまで決められる力量が当然のように備わっていたので、それを何十年も続けた、という感じもする。書き手が書いていること自体に興奮したり揺らいだりする感じは、幸田文の文章のなかにもあるのは確かだが、しかしあまりにも完成度高くて、そんな箇所そのものもはじめからそう決まっていたのではないかと思うくらいの磐石感を併せ持っている。あと、やはり今では使われなくなった、昔風の、昔の東京風のものの言い方が、とても気持ちいいというのもある。
スケートで思い出したのだが、昨日の夜たまたまつけたテレビで、シルベスター・スタローンが出てる「ロッキー」(ジョン・G・アヴィルドセン)のバート・ヤングが、チキンを手づかみでグシャグシャと食い散らかしつつ「ロッキーと一緒にデートに行ってこいよ」と、妹のエイドリアンを掴まえてやや強引に何度も勧めるが、エイドリアンは怒っているのか恥ずかしがっているのか、ドアの向こうに隠れて出てこない。傍らに立ってるロッキーは、らちがあかないのを見越してもう帰ろうかなと様子をうかがうが、バート・ヤングはお前が直接説得してみろとロッキーに勧める。ダメ元のロッキーが閉められたままのドアに向かってたどたどしく呼びかけると、ふいにドアが開いて、かなり完璧にあったかくした格好の、他所行き風なエイドリアンが出てくる(少し気合い入れて限られた条件下で出来るだけおしゃれしてみました、どう?そんなに悪くないでしょ?のちょっと誇らし気な表情)。やや固い表情のエイドリアンと無愛想というか素朴というかたどたどしい喋り方のロッキー、営業終了を無理やり延長してもらったスケート場で二人がリンクを回って、そのあとロッキーの部屋で二人は…みたいなところまでしか見なかったのだが、この作品でのタリア・シャイアはじつに瑞々しくていいなあ。メガネとコートと帽子もやけにかわいいし。でも時代を経ていつの間にかすっかり「奥様」っぽくなってしまうんじゃなかったかしら(どの出演作においても)。ゴッドファーザーのシリーズに出てくるときも、つい「ロッキー」を思い出してしまって、この女性もかつてはあんなに素朴で質素だったのに…と無意識に思ってしまっている。
「ロッキー」は僕の同世代ならほとんど全員が小中学生のときにテレビの洋画劇場で観ているのかもしれない、観てなかったとしても、誰もが「エイドリアン」という名前を知っていたはず。しかし当時「エイドリアン」を魅力的だと感じた小中学生はほとんどいなかったのではないか。僕も思わなかった。というか、昨夜観て、うまれてはじめて、けっこうかわいいじゃんと思った。