ある本を読んでいたら、ある問題をめぐって関係者が入り乱れて、本来キーパーソンになるべき幾人かに<良い意味での政治性>がまるでないので、それがことをややこしくまとまらないものにしている…という箇所があって、このケース、この業界、この時代に限らずとも、まあ中間管理職以上の会社員にとっての美徳というのがあるとしたら、事象に対し自らの働きかけによって、その<良い意味での政治性>とやらが発揮されるように粛々と頑張ることだろうと思うし、つまるところそれに尽きるだろうと、なぜかそういうことを、我が身の不甲斐なさも含めて、しみじみと考えさせられてしまった。

悪い意味での政治性=私利私欲であるのは誰でもわかるが、でも非政治的なのもやはり私利私欲であるだろう。悪い意味での政治性を発揮するにはそれなりの胆力も覚悟もいるけど、非政治的であるには何の苦労もない。自分さえ良ければ良い、たまたま与えられた現状に不満がなく、現状維持に必要な政治性の必要量だけを気にしてる、そういうことに神経を使い続けることを、生きる目的とする。それで自分と関係者と家族を守る、そのことの何が悪いというのか。自分も含めて、たしかに誰もがそうありたい。できるだけ非政治的でありたい。政治を必要とする場からなるべく隔たっていたい。

でもいま、この場所はそうではない。だったらどうしようか。その思いは意外に、誰もが抱えているのだけど、それが個人の枠をこえて広がらない。広がりようのないことだから仕方がない。しかもそれは、若い人の情熱とか焦燥とはやや違うたぐいのものなので、なおさら他者の共感などで結びつくようなこともない。

それは仕方がないことだし、そう簡単に解決策など求めても無意味だ。べつに気の慰めをほしいわけではない。非政治的でありたい私をあきらめたくないが、逆にそれを全肯定する言説は拒みたい。だからつまりは要するにどっちでもいい。未解決の気持ち悪さのままでいい。それは毎年の健康診断で、些細な数値の是正を指摘される不愉快さに耐えていれば済む問題に近い。つまりはどうでもいいのだ。

しかし<良い意味での政治性>というのがあるのもまた、事実なのだろうとは思う。それに憧れるのとはちょっと違うが、他所にはそういう事例もあるのだろう、それが「ありうる」という、無責任な期待のような、ぼやっとした何かとして思い浮かぶ。