今があり、時間、それは動いているというのを信じるのは、以外に難しい。それが動いているという実感が、私の身体に伝わってこなければ、今停止してますとか、動きますとか、電車内のアナウンスのように教えてもらわなければわからない。少なくとも今、私は生きていると、私が信じるなら、その実感の根拠が、時間の動きであると考える、だから世界の時間が流れていると、私は信じることができるのだろうか。私に生きている実感があるとしても、それと時間とは無関係である可能性は少なくないのだけど。
いや、時間を信じるとは、つまり私の死を信じたいということだろう。流れを実感しているわけではないにもかかわらず、いつか不条理なまでのストップが生じることは信じたい。その来たるべき不可逆的で甚大なインシデントへの思いが、私の時間を進ませる。それは川の流れではなくて、落ちていく砂時計のイメージで、私が崖の淵から足を滑らせたところから私の生がはじまっていて、地面に叩きつけられたときに私の生が終わる。そのことを知っている、その始まりから終わりという概念を信じてる。物理学的な重力作用を信じるよりも、その再生をうながす時間を信じなければ、私の落下は終わらない。落下する私に納得して目を瞑ることができない。