カラヴァッジオの作品(本物)を観た回数はそれほど多くない。東京でカラヴァッジオ展が開催されたのは2001年らしい。たしかこれは行った。2002年にミラノ・フィレンツェ・ローマと旅行した際にも幾か所かで観た。2016年の西洋美術館は行かなかった。2019年名古屋でのカラヴァッジオ展も、そのときたまたま名古屋に居たので、観ようと思えば観れたけど、観なかった。
本屋をうろついていて、カラヴァッジオの大判の画集があるのを見かけたので、試し読み用の台にのせて、ぱらぱらと眺めていた。見ているうちに、カラヴァッジオって大したことないのだと、ある時に感じたのを、ひさびさに思い出した。いつそう思ったのかは定かじゃないけど、たぶんイタリアのどこかの教会だった気がする。
画集だと判りづらいというか、カラヴァッジオは、画集だと弱点が見えにくい。図版向きの画家だとも言える。印刷媒体に向いてる絵画というのは、そのまま宗教施設の建物内や祭壇に掲げられるのにも向いているということかもしれない。とにかく画面の、矩形への意識がきわめて低く、だからその大部分を覆ってる背景の黒が、絵として無残なほど弱い。古臭い例えだが、映画宣伝のペンキ絵という形容がまさにあてはまる。図と地があるとして、地をここまで忘れてしまってもかまわないと思えるのは、ある意味すごい。
絵のある部分がこのような状態であることに、よく我慢できたなと思うのだが、と云うよりもそれを問題に感じなかったというのは、絵画への考え方や感覚が、今とはまるで違ったということなのだろうけど、ただそれにしても、ルネンサンス期の巨匠の作品にしても、あれほどの脆弱さを画面内に残して平気でいた画家の実績は思い浮かばない。
だとすれば、あの脆弱さは意図的なのか。それが新たな賭けであり挑戦だったのか、もしくは視覚媒体あるいは物質としての絵画にまったく関心がなかったのか、そのひ弱さを元に浮かび上がってくるイメージこそを信じたということなのか。