Amazon Primeで成瀬巳喜男「秋立ちぬ」(1960年)を観る。
映画やドラマで、子供の演技を見るのは苦手だという自覚がある。たとえば小津の「お早よう」は、僕には耐え難い。
子供の演技というのは、上手ければ上手いほど、見てるこちらをなにかいたたまれない気持ちにさせるもので、思わず目をそらしたくなるというか、下を向きたくなる。たとえば人気子供タレントみたいなのがテレビに出てるのを見たとき、得体のしれぬ恥ずかしさ、たまらなさが胸に沸くのを感じたりもする。
本作の主要登場人物も子役だが、ただし本作を観ていてもあの「嫌な感じ」はあまりない。なぜなのか。それは映画が、映画として子供に何かさせようとしてないからだろうか。彼らはほぼ大人の言い付けにしたがってるだけの、子供が子供を演じてるようなものだ。それは「お早よう」もそうだろうが、ただ「お早よう」よりは本作の方が、まだ子供が子供であることの自覚が薄いというか(くりかえすが「お早よう」をおぼえてないけど、たぶん本作とはまるで似たところのない話だったと思う…)、子供たちが、親や親類の事情の犠牲者であることに対して自覚がないまま、自分が幸福なのか不幸なのかもわからないまま、そこらをうろついてるだけのように見えるからかもしれないと思う。それは彼らが純真で純朴で愚かな可愛い存在だからではなく、むしろ不平不満のかたまりであり、彼らなりの方法で打開策をひたすら手探りで模索するからこそ、そのように感じられるのだ。
これ、舞台はどこなのかなと思う。カブトムシを取りに行くのは多摩川のほとりで、バイクの兄さんは多摩川でひとり気持ちよさそうに泳ぐのだ。でもデパートの屋上から海が見えるなら、やはり中央区あたりなのかな。うまれてはじめての「海」は、まだ埋め立てたばかりの開発前の晴海ふ頭だから、やはり銀座周辺。多摩川は大田区あたりまで行ったのか。
主人公の少年がひとり居候する、自営で八百屋を営む一家はわりと経済的には苦労もないのか、商売人的な厳しさやケチ臭さはあるけど、息子も娘もずいぶんのびのびと気楽に「青春」を謳歌してるようで、とくに長男のバイクは、あれで昼も夜も気が向けば東京中を好きに乗り回していられるのは、これほど魅力的なものはないように思え、あの鷹揚な彼の性格が、主人公の少年の追い詰められた気持ちを救うところもあっただろうと思う。
それにしても、最後に少年と少女がふたりきりで、ああして…ねえ。一瞬「わたしは慎吾」かと思ったよ。如何にも成瀬作品らしく、大人たちの非情さ、身勝手さも磨きが掛かっていて、これはちょっと、成瀬作品を久々に観たけど、予想外で驚かされた。