かなり昔に録画したCS放送から五所平之助「大阪の宿」(1954年)を観る。

東京から大阪支社へ左遷されてきた勤め人の主人公(佐野周二)が、大阪の宿屋に逗留し、会社の同僚とか上役、祖母や父の知り合い、宿主の女や女中、知己の芸者、その他さまざまな人々とかかわる。

彼は「月給取り」であるから、とりあえず経済的には安定していて、しかも身内の強力なコネというか出自が良い(父親だか祖父が「太い」)ので、東京の上司と揉め事を起こした身であるにしては、やけに泰然自若としている。肉親のことや会社における自分の立場など、この人なりに色々と苦労はあるのだろうけど、それは物語と直接関係はなく、良くも悪くもマイペースで、つねに善意の第三者的な立ち位置の崩れない登場人物であり、まさに佐野周二が演じるのにぴったり、といった感じである。

「会社組織の上役」と「月給取り」と「芸者」と「宿屋の女中」と「宿屋のおかみ」そして「ほぼ無職なまま借金を背負った独り身の女」それぞれの境遇、立場、苦しみが、それぞれ明確に描き分けられている。

宿のおかみさん(三好栄子)は、守銭奴を絵に描いたような、強欲と吝嗇を体現した人物であり、また佐野周二の勤め先の会社の上役らも、組織のもとで相互に保身しながら宴会に明け暮れる、きわめて醜悪かつ典型的な俗物である。

その一方で、宿の女中らは過酷な労働条件と貧困に喘いでいる。いちばん年嵩の川崎弘子は、郷里で成長した子供に会いたいが、わずかな休暇さえもらうことも叶わず悲嘆に暮れているし、水戸光子は甲斐性のない恋人から金をせびられ続け、盗みに手を染めて宿から追い出され、それでもまだ恋人と腐れ縁を切れない有様だ。親を亡くし不正品弁償のため我が身を売る女は、それで得た金を返済の一部として佐野周二に渡そうとする。

佐野は金を返そうとした女や、自殺をほのめかす水戸光子らに対しても、宿のおかみさんや番頭に対しても、原則として等距離を保つ。彼ら彼女らに、自分の人生が巻き込まれることはないのだが、可能な範囲で親身であり、親切である。また「月給取り」でありながら、完全に組織下へ取り込まれているわけでもない。それは冷たいけど理性的で知的な生活の態度だろう。(佐野周二と、友人の細川俊夫もそうだ。彼らはひとまず金に困っておらず、身の処し方を自力で選択でき、自ら宴会を催すこともできる。)

またこの映画の世界では、芸者の乙羽信子も自分で自分の身を立て暮らしている、その余裕を漂わせている。彼女の悲しみは、佐野周二の心のなかに自分が居ないということであり、それ以外の、たとえば仕事での憤りや鬱憤、愚かな男たちが見せる振る舞いには毅然と立ち向かい、場合によってはそんな男たちの頭に酒を浴びせかけて懲らしめる。芸者としての自分の力量に見合わせつつ、彼女はそのくらいのことまではやれるのだ。

最後に辞令が出て、佐野周二はふたたび東京へ戻される。宴席の態度を見た支店長から、再左遷されたようなものだ。彼は自分がお世話になった人を招いてお別れの会を催す。その席で彼は立ち上がり、こう演説する。

「僕たちはお義理にも、皆が幸福だとは言えない。」

然り!然りー・・と芸者がふざける。皆が笑う。佐野は続ける。

「なあ、頼もしいじゃないか。僕たちお互いに、自分の不幸を笑えるんだぜ。」

皆が顔を見合わせる。

「ね、この笑いこそ、新しい生活の力にしなければならないと思うんだ。」

誰もが、笑顔のような、悲嘆のような、複雑な表情でその言葉を聞く。どこかに瑕疵のある、何か誤魔化しのあるような、どうしても納得のいかない言葉に感じられる。ただその一方で、このような言葉がやはり必要ではないのか。まずはそのような言葉をもって、試しにでも心を合わせてみなければ、新しい生活のための手探りさえ、出来ないかもしれないじゃないか。ひとまずは、それを信じてやってみたらどうかと、そんなことを、それぞれが思い思いに、自分なりに考えている表情のようでもある。

君の読んでる本は何かね?まさか社会主義じゃあるないな?などと支店長から言われたけど、その本は社会主義ではないけど、でも佐野周二の、どこか気楽でどこか楽天的に過ぎるその人となりは、あまりにもスキがあり過ぎだとしても、あの席を囲んでいた人々にとって(もちろん当時、この映画の観客にとっても)、何らかの印象を残すものであったのだろうか。