お正月休みなので、ベルクソン「物質と記憶」と、カフカ「失踪者」と、ディック「ヴァリス」を並行して読む。面白いけど、どこにも辿り着かないし、何のもっともらしい言葉も出てこない。じつは半年前くらいから、ずっとそんな感じだ。でもそれでいい、そのままで、まあいいやと思ってる。実績はなし。来年も引き続き、ずっとそんな感じのまま、安い答えはスルーの意気込みで行きましょう。
ディック「ヴァリス」の主人公は、ホースラヴァー・ファットであり「ぼく」でもある。必要不可欠な客観性のためという理由から、この話は三人称として記述されるのだが、結果的にはファットについて語る小説家の「ぼく」という別人格が、定まらない位置に浮遊してるような案配になる。
「私」から出発する哲学に対して「彼ら」から出発する小説がある。観念論的、あるいは実在論的哲学の考えを、小説として(必ずしも「私」ではない視点から)やるなら、たとえばディック「ヴァリス」のようなことになるのか。哲学なら、考えてる「私」が、第三者から見てどんな具合なのかは、さしあたり問題ではないけど、小説だとそうも行かない。だから登場人物少なくともファットは、いろいろ考えているのに、やっぱり「キチガイ」だってことになってる。そのように言わざるを得ず、それを言う役割が「ぼく」なのだが、でも「ぼく」とはファットだ。
哲学的な「私」ではない、小説的な「ぼく」。「私」にとっての神様とか、超越とか、狂気とかが、小説としては、「彼ら」にとっての、神様とか、超越とか、狂気なので、それがそのまま、ヤクとか、猫とか、女子高生とか、ソ連の戦車とかでもあって、そのとき読者が見せられるものが何かってことでもある。なにしろ「彼ら」の狂気あるいは神を、哲学としてではない方法で記述するために「ぼく」という人称を、かろうじて、ぎりぎりの危うさで成り立たせている。小説=それを成り立たせるための努力って感じでもある。