快晴。光は多いが、空気が冷えていて、かすかな金木犀の香り。褐色と赤と緑色が絶妙のバランスで混ざりながら朽ち始めるハナミズキの葉。
千代田線の乃木坂駅で降りて、改札を出てエスカレーターを昇り、美術館入口までの板張り通路を歩いて、館内に入って、再びエスカレーターで二階へ上り、国立新美術館 企画展示室2Eへ。「与えられた形象―辰野登恵子/柴田敏雄」
辰野登恵子の初期作品から最新作までをまとめて観ることができて、ことに八十年代の作品がまず、絵としての格調の高さが文句なしに良くて、一瞬で辰野登恵子作品だとわかる、あのリフレインされる、装飾文様のような三本線と花柄のパターン。
とにかくあれを、発明して実現したことが、まず凄い。それだけでほぼ、もう始まって五分で勝利が、確定したようなものではないか。
形態と色調と質感との調和の度合いが、そのスピードといい粘りといい手離れのよさといい、もんくのつけようがないレベルで結晶していて、ほとんど呆れるくらいの、良い絵画っぷり。八十年代。
続けてみていくと、画面上で発生するあらゆる出来事を、ぐっとスローダウンさせて、できればほぼ止めてしまうような仕事のように思え、良い絵画として成り立った事物と周囲も含めて一旦止めて、編成の見直しをして、いつの間にか不可視状態になっていた要素も一旦全部その場の出来事として、隠しようのないものとして、再びあからさまに描きなおされていくような、それまでから遡行していくような。
人を落ち着かせる作用のあまり感じられない、きんきんした色調と、どこまでも未完な印象を与える形態のきめ方と、ぼやっとした内側から照らしてくるような光の滲みかた。
止まっていることを前提とするのではなく、まっとうに描きながら、あたりまえのように止めてしまおうとする、というか。ほとんど台無し感の、一歩手前に踏みとどまるというのか、いや踏みとどまる意志さえ止めてしまおうとして、最終的にどうにもならない地点で糸一本で成り立たせるというのか。
目指される着地点が、80年代と90年代と00年代で、それぞれ大きく違うと感じられ、それぞれ連続しているとも進化しているとも断定できない感じで、むしろ十年ごとに、期待を背負って、堂々とニューアルバムがリリースされるような、ブラン・ニュー・プランの提示がなされていて、アート・プレゼンス、という感じで、これからのイメージをうたって、その場の人々を導いていくような、凛々しく格好良いアートの姿を思わせ、しかし00年代のシリーズなど、ほんとうにこれで成り立っているのか、正直僕にはよくわからんとも思う。
それでもみていて深く、しみじみ、良いと思ってしまえて、でもじつは絵の中心にあるものから目をそらして、自分の気に入った箇所だけをみて、それでいい気分になっているだけかも、と、自分を疑う気持ちにもなる。とにかくキレイな箇所があるのでそこに留まっていたく、そうしていればいつまででも、みていられる。
これだけまとめて辰野登恵子の作品をみたのがはじめてだったので、70年代のストライプの作品も初見だったのだが、すごく良くて、活動の初期から圧倒的に突出していたのだーー…と思う。
オアゾの丸善で開高健「ロマネ・コンティ・千九三五年」、幸田文「黒い裾」、ロブ・グリエ「覗く人」を買う。ワインを二本買う。東京駅丸の内口の駅前が、記念写真撮っていたり集まっていたり、ものすごい人だかり。
帰ってきて、茄子、牛肉、その他惣菜など買う。夕方の五時半の空の色が、夜の一歩手前の色になっている。