ヴィスコンティ「山猫」をDVDで観る。けっこう疲れた。歴史の物語だと、勝手に思い込んで観はじめたのだけど、史実みたいなものは物語の内側にほとんど食い込んでこないというか、歴史の動乱のさなかを舞台にしていながら、ある意味すごく非歴史的というか、映画の時間内で何かが大きく動いていくというようなことではなく、つまり映画の時間にあわせて歴史的な時間も動いていくということではなく、むしろ狭間の情況におかれた中途半端な状態での、ひたすらな時間の堆積に耐えているような、目の前の、延々繰り広げられる、ほとんどまったく時間の浪費のような、ただひたすら、だらだらと展開するものを、じっと観ながら、何を待つでもなくただ待っているだけみたいな、そういう三時間であった。だから、要するに悲劇的でもないし、諸行無常とか、つわものどもが云々とか、そういうドラマ的なこともないし、いわば歴史の物語に対して、ふだん甘く軽く期待してしまうようなものはここにはなくて、もう少し屈折しているし、もう少し内省的でもある。最初から最後まで、そのような私的ななにかが貼りついている感じがする。


もう何年も使われていないのであろう、蜘蛛の巣と埃だらけになったまま、床に絵画がいっぱい立てかけられている部屋がいっぱい、ドアからドアへひたすら続いていくのを、アラン・ドロンクラウディア・カルディナーレがふざけながらどんどん移動していって、このお屋敷にはいったいいくつの部屋があるの?そんなことがわかるわけないでしょ、みたいなやり取りをしているシーンが印象的。こういうのって、たぶん本当にあったんだろうなと思わされる。日本でも、古い大きなお屋敷に、子供の頃住んでいた、なんていう思い出がある人なら、こういう感じはリアルなんじゃないだろうか。部屋の向こうにまた部屋があって、何十年も使ってない物置みたいな部屋があって、そのさらに奥にも…みたいな。僕はもちろん、そんな思い出はないのだが、ああ、これはまさに、「個人的な思い出」がかたちになったシーンなんじゃないのかな、とか思いながら観ていた。