波打ち際というか、水際。崖っ淵の席。カウンターだけの店。頭上には庇が突き出ている。コンクリートの床に、背凭れのない高い椅子が数脚並んでいる。すぐ後ろは、もう海だ。少し後ろにずれたら、椅子ごとまっ逆さまに海に落ちる。そういう店だ。蒸し暑いと言ってもよいほどの天気だが、夜の七時前には快適な微風が身体全体にあたる。風の方を向いて、前髪がぜんぶ後ろに流れて、目を細めて、顔ぜんたいで風を受けている。正面に向きなおって、グラスを口にはこんで、呼吸を液体の方へ向けて、しばらく一息かニ息吸い込んで吐いて、そのままグラスをあおる。口の中に、流れ込むもの。波打ち際。波の音がする。さっきからずっとだ。あたりがくらくなる。くらくらする。ゆらりと重心が後ろへいく。あまり仰け反ると、水に落ちる。椅子の足が、ぎりぎりのところにあって、あと数センチずれたら、ぐらっと傾いて、海に落ちるはずだ。とても気持ちいい。カーテンがふくらんでいる。風にあたるには、波打ち際にいるには、これからもそうするには、どうしたらいいのか。水に浸るぎりぎりのところで粘っていたい。椅子ごとぐらっと海へ落ちていく、その直前のところでカウンターの縁に掴まって耐えている。下から波の音が聴こえる。夏が来たなあ。また夏だ、夜になったらほんの束の間だけ、こうして波打ち際で粘っているのがお約束の季節が来たなあ。銀が海水の塩分にやられてざらざらと表面が白濁した色のスプーンが置いてある。カウンターの上も、塩と機械油のような何かで、べたべたしている。さっき注文したムール貝を蒸したものがそろそろ来るころだ。砂でざらざらとした皿の上の海水で蒸した強烈な磯の香りがやってくる。でもだめだ、もう落ちそうだ。カウンターを捉まえている指の握力がじょじょに力を失っていく。落ちたらそのあと、どうすればいいのか。着替えはできるのか。そのあと電車に乗って帰れるのだろうか。落ちないかもしれないが。今、いったい何時になったのか。あたりはさらにくらくなった。もう、ただの夜になったか。